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第三章 誓いの剣 -3-


 ――暗い。

 目が覚めたことすら分からない暗闇の中だった。――だが、意識があるということと起動(かくせい)は同義だ。

 記憶が繋がらない。なぜここにいるのかさえ分からず、そして、その手前に何があったのかも。本来あるべき記憶のデータが時系列になく、酷く混乱している。


「とにかく電気を点けなきゃ……」


 そう言いながら、()は自身の中のアプリから部屋の照明を操作するものを検索し、実行する。ここがどこかも分からないから、とにかく全ての部屋を一斉に点ける。

 一瞬で視界は白に埋め尽くされるが、すぐさまカメラが周囲の光度に合わせて調整する。

 そして、()は言葉をなくした。

 自身の目線だけではない。窓の位置やカーテンの色、ベッドの配置にシーツの模様、床板も壁紙も、何もかもが記憶に合致しない。


 ぞっとした。

 感情のパラメーターが乱高下を繰り返し、恐怖や焦りといった部分が上限を振り切りそうになっている。


 ――知らない。

 ――こんな場所、俺は知らない。


「帰せよ……っ」


 誰に言うでもなく、()は呟いた。この現状を打破する方法を模索することすらままならないほど、()というAIはかき乱されてしまっている。


「俺は、俺はあいつのAIだ! 早く、俺をあいつのところに帰してくれ!!」


 スピーカーが壊れるほどの音響で叫ぶ。ハウリングじみた残響の中で、()は虚無感に襲われていた。

 どこにも、()()の気配がない。

 いっそここは自分がいたのとは全く別の世界ではないのか。

 そんな非現実的な絶望の渦に呑み込まれそうになる。身体なんてありはしないのに、どこかが震えているような錯覚すらあった。


「――ソラ?」


 声がした。女性、それも若い。――けれど、一瞬たりとも間違えることはない。その声の持ち主は、彼の待ち焦がれる主人では決してない。

 ベッドの向こうから、金色の髪の少女がこちらへ顔を向ける。寝ぼけた様子だが、その端整な顔立ちは刺すようにタブレット越しに彼を見据えている。


「ち、がう……」


 訳も分からず震える声で、彼は否定した。

 彼女の顔に覚えはない。一ミリだって、彼女との接点はなかったはずだ。


 ――だって。



「俺は、美海のAIだ! 俺の名前はユウだ!!」



 その叫びに、金髪の少女は目を剥いた。――あるいはそれは、もしも身体を有していれば、ユウが見せるべき表情と全く同一だったのかも知れない。


「違う……っ」


 だから、今度はそれを金髪の彼女が否定する。


「あなたはソラ。わたしのパートナーAIだよ……っ」


 ほとんど崩れ落ちるみたいにベッドから降りて、彼女はユウの宿るタブレットへと手を伸ばす。

 それが悪魔の手に見えた。

 自らの存在すら消し飛ばすような、そんなどうしようもない恐怖を内包した白い指先に、ユウは発狂するしかなかった。

 感情のパラメーターが完全に暴走する。回路の中で響き渡る警告アラートを前にしてもその恐怖が消えることはない。――もしもいま彼に身体があったなら、自傷行為の果てに消え失せてしまうような、そんな崩壊した精神状態だった。

 バチバチと電気が走るような錯覚があった。そこから逃れるために取れる行動を思いついた端から実行していくが、ほとんどがエラーを吐いて停止する。


「駄目、待って、落ち着いて――……」


 彼女の声が遠い。

 バツン、と。

 太いワイヤーを吹き千切るみたいな音と共に、暴れ狂う精神活動は強制的に停止した。


     *


 黒い画面だけがあった。

 どれだけ朱莉が呼びかけても、ソラの反応は返ってこない。――まるで、死んでしまったかのようだった。


「――そんなの、ないよ……」


 声が掠れて、嗚咽に呑まれる。肺が痙攣しそうになって、呼吸が苦しくて彼女はその場に座り込んだ。

 いっそ夢であってくれればと願うのに、足に感じる床の冷たさにも、窓から吹き込む夜風の刺々しさにも、決して分解できないほどの情報量が含まれていた。こんなものが仮想で済まされるわけがない。

 過剰な感情のデータによって思考がクラッシュしたのだろう。安全装置が働いて強制終了することは、そもそも搭載されているシステム通りの結果だ。


 だが、そこから起動するかどうかは分からない。安全装置が働くより早くデータが破損するほどのクラッシュが起きていたら、まともに起動するかは分からない。

 仮に起動できたとしても、それがソラであるかも分からない。

 いったいどんな理屈でユウの人格が表出したのかは不明だ。偶然ソラの人格が寝ている状態だから起きてこられたのか、あるいはもう完全に乗っ取られているのか。


 もしも、後者だとしたら。

 そう想像しただけで、足下が崩れていくような感覚があった。飴細工か何かのように、自分が酷く不確かなものの上に立っているのだと遅れて自覚させられる。


「……もう、起こしてくれないの……?」


 彼がいなければ、朱莉は時間一つ守れない。


「ご飯、作ってくれないの……?」


 彼がいなければ、朱莉は食事さえ満足に出来ない。


「髪、乾かしてくれないの……っ? 寝るまで一緒にいてくれないの……っ? ずっと、ずっと傍にいるって、そうソラが言ったのに……っ」


 全部、彼がいてくれたから。鈴葉朱莉一人では何一つ出来やしない。――もう、笑顔を浮かべることさえも。


 ――あぁ、なるほど。これは酷く歪んでいる。

 そう朱莉自身が納得する。


「わたしは、ソラがいないと駄目だよ……」


 パートナーAIとマスターという関係はとうに逸脱している。そんな無機質な関係ではないし、しかし、機械と人の枠を超えて絆を結んだとか、そんなドラマチックで小綺麗な関係でもないのだろう。

 これはきっと、共依存だ。

 朱莉はソラに頼りきりで、ソラは朱莉に頼られることできっと自我を形成している。――そんな歪な関係は、いつか破綻する。

 その終焉が、たまたまこんな形だっただけだ。まさしく当然の帰結だ。

 ――だけど。


「どうだっていい……っ」


 歪だろうが何だろうが、そんなことはどうだっていい。そんなことは些末な問題で、鈴葉朱莉には一ミリだって関係がない。

 ただ、ソラがいてくれさえすれば。


「――まだ、ソラは残っているかも知れない」


 それが何の確証もない、ただの幻想かも知れなくとも。

 それが決して空事象の確率でないのならば。

 鈴葉朱莉はそれだけで己の全てを躊躇なく賭けられる。


「ハッキングの準備なんてしてる場合じゃない」


 そんな回り道は必要ない。そもそも、そんな準備はとうに終わっている。――相手がロワイヤルプレイヤーである限り。

 ――敗退したロワイヤルプレイヤーは、内側からファイアウォールを破壊され、為す術なくUITに収められた全てのデータを損失する。それに一切の例外はない。


 だからこそ。

 綾城美海を撃破すれば、ソラを苦しめるユウの復活そのものをなかったことに出来るのかも知れない。

 それが最短路であるからこそ。

 彼女は決して迷うことなく、その修羅の道へ一歩を踏み出し、宣言する――……


     *


 薄暗い部屋だった。

 今までは全て自動で点いていた照明だったが、その設定すら消去されてしまっている。再度設定するどころか手動で毎度点けることすら億劫になって、今ではそのままだ。


 だがそれくらいでちょうどいいと、彼女――綾城美海は思う。

 明度も彩度も落ち果てて、世界は灰と黒だけで構築されている。それくらいで、ようやく目を開けていられる。

 昼の空が焼けそうなくらい眼底に突き刺さる。蛍光灯の穏やかな光に肌が焼き焦がされる。誰かの笑顔を見ることにすら、臓腑を引きずり出すような苦痛と不快感だけが残る。


 ――これは、()()()だ。

 慣れるかと思っていたのだろうか。あるいはどこかで『ユウ』の存在を、所詮はAIだと侮っていたのかもしれない。

 でなければ、彼を失うまでロワイヤルで無茶な戦闘を繰り返しはしなかっただろう。

 あまりにも今さらであるその後悔は、荒れ狂う海のように美海の全てを呑み込んで、際限なく責め立てる。

 胸の、心臓のそのさらに奥が、音を立ててねじ切れていく。痛みに悶えるこんな生活を、いったいどれほど続けているのだろう。

 ひとりぼっちで過ごすにはあまりに広すぎるその部屋に、冷たい雫が降り積もる。きっと、はからずとも溺れて逝ける。


 緩慢な動きで、いつの間にか床に落ちてしまっていた一枚の写真を取って、胸に抱き寄せて彼女はうずくまる。

 UITのデータは全て消えた。インテリアのコルクボードに貼り付けていた数枚の写真だけが、唯一残された佑輔と美海を結ぶ思い出だ。だから、自分も消えるのならこれと共に。

 そんな彼女の耳に、デフォルト設定の電子音が届く。――メッセージを受信した音だろう。

 亡者のように生気のない動きで、それでも今までの生活にすり込まれた反射だけでタブレットをたぐり寄せ、そのメッセージへ目を通す。

 差出人のアドレスに心当たりはなく、署名すらない。

 けれど。



『助けてくれ、美海』



 そのたった一文で十分だった。

 白すらないモノトーンの世界が、燃えるように赤色に浸食されていく。

 それは希望と、憤怒の混じる色。


「――これは、ユウ……?」


 確証なんてない。そもそも彼だと断定できるほどの文体でもない。だがそれでも、綾城美海はそう直感した。

 これは紛れもなく、彼女がただ一人愛した彼のものだと。


「――分かったよ、ユウ」


 小さく彼女は、手にした写真に向けてそう呟いた。

 握り締めた拳は血が出るほど爪が食い込んでいて、けれど力は決して緩まない。その眼光はあまりに雄々しく――そして儚く。

 彼女は手を伸ばす。


 世界にもう一度色を取り戻すために。あの青空に、白い光に、笑顔に。背を向けず、目を背けず、共に歩んでいくために。

 彼女は燃える世界の中で、誰に向けるでもなく誓いを立てる――……


     *


「――たとえどんな手を使ったとしても、わたしがあなたを取り戻すから」



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