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第二章 心 -10-


「んー! やっぱりケーキは幸せの味だよね!」


 右手で持ったフォークを咥えて、左手は頬に当て、鈴葉朱莉はうっとりと本当に幸せそうな顔をしていた。


「……朝飯はいつもよりカロリー高めだったのに、昼飯にランチセットにケーキ付き、とか、年頃の女の子としての危機管理能力はどうなってるんだ……?」


「ほら、わたし太らない体質だし」


「根本的に、俺がそうなるように食事を管理しているということを忘れるなよ?」


 ソラの言葉に、幸せを邪魔された朱莉が「むぅ」と不機嫌に唸る。


「なんでソラはデリカシーが獲得できないのかな……?」


「ご主人様の責任もあると思うぞ」


「責任転嫁だよ、それ?」


 そんな風にくすくす笑いながら、朱莉はペロリとケーキを平らげてみせる。


「ふぅ、美味しかったぁ。――ねぇ、今度これ家で作ってよ」


「レシピがないと無理だっての。オリジナルで作れるようなシステムにはなってねぇよ」


「それもそうだねぇ。じゃあ今度用意しとく」


 それがレシピの方なのか、はたまたオリジナルでレシピを考案するプログラムの方なのかは、少し怖くなって聞けなかった。


「さて、じゃあ次はどこに行こうか」


「それを決めるのはお前だよ、ご主人様。俺はお前の肩に乗っかってるだけなんだから」


 そんな風に言いながら、ソラはきゅいんきゅいんとレンズを回転させる。

 現在、ソラの意識はいつものタブレットでも、モバイルのUITでもなく、朱莉の肩に固定された半球型の端末にあった。

 それは朱莉が適当に組み上げた、ソラのための視覚と聴覚を供給し、音声を発するだけの入出力端末だ。

 別段、モバイルに搭載されたカメラやマイクでも同じことが出来るのだが、それだと朱莉の胸ポケットに入ることになる。年頃の乙女としては許容できないのだろう。わざわざ、別の端末を用意したのはそういう理屈だ。


「でも遊びに行くの久々な気がするしねぇ、何をしたものか」


 ここしばらくはロワイヤルプログラムの関係でずっとASCをプレイしていた。こつこつと勝利を積み重ね、上位ランカーに入ることも見え始めていたほどだ。

 敗退の危機があるから仕方なしにとは言え、こうして遊ぶのはいつぶりだろうと、薄らいだ記憶を元にソラは思う。


「最近ずっと曇ってたけど、今日は天気がいいしね。外をうろうろするだけでもいいかも」


「夏の暑さを舐めすぎじゃないか、インドア娘」


 そも、ソラがどれほど人間らしかろうと、それを支える端末は機械だ。直射日光や高温多湿は天敵だし、そうでなくとも外装が熱を持って朱莉を火傷させかねない。まだ七月末とは言え、気をつけることしたことはない。


「うーん。屋内ってなると、このカメラ付けてると映画とか美術館は厳しいだろうし……。プラネタリウムとか? お客さんが少ないからなのかは知らないけど、前行ったときは係員さんがあっさりオッケーくれてたし」


「別にいいけど、しょっちゅうプラネタリウム行きたがるよな」


 実際、朱莉のUITの中には家庭用のプラネタリウムプロジェクターが十種類近く用意されているくらいだ。正直、わざわざ天文台の科学館にまで行く必要をあまり感じないほどのクオリティの物だって多数ある。


「いいの。だって好きなんだもん」


 そう言って、半ば強引に朱莉は次の目的地をプラネタリウムに決定するのだった。



     *



 それから、あっという間に時間は過ぎた。

 プラネタリウムを出たあとのソラと朱莉は、何を話すでもなく、赴くままに足を動かし、気付けば橋まで歩いていた。

 夕日が川面に反射し、辺り一面は焼けたような橙色に染められている。


「やっぱり、空はいいよね。さっきみたいな星空も、この夕焼けも。昼の抜けるような青空も。――わたしはどれも好きなんだよね」


「そうだな。さっきのは、AIの俺にも綺麗だと思ったよ」


 人工物、それもシステムなど前時代的なものだというのに、球状の天井に映し出された星空にソラは息を呑んだ。朱莉に付き合って今までだって何度も観たのに、それはソラの心を大きく揺さぶった。

 たぶん、あの上映は何も変わっていない。

 変わったのは、ソラのほう。

 星々と自分とを、重ねたのかも知れない。

 遙か遠く離れた星の光は、何年も、何十年も、何百年も遅れて地上に届く。光が見えたそのときには、もうその星は死んでいるかも知れない。

 こうして自己を保っているように見えるソラもまた、実は、とうの昔に消滅していたのかも知れない。


「ねぇ、ソラ」


 橋の中腹で立ち止まり、朱莉は欄干に腕を載せてもたれた。


「何だよ」


「初めて会った日のこと、覚えてる?」


 それは何気ない言葉のようだった。

 けれど、違う。

 そのたった一言で十分だった。十分すぎた。


「――気付いてたのか」


 そのソラの言葉に、朱莉は小さく頷いた。

 ソラはAIだ。疑似ニューロン故に命令などを一時的に忘れることはあっても、根本的に蓄積されたデータは消去されない。覚えているかという問いかけは、本来であれば無意味なのだ。

 つまり、ソラが隠し通そうとしてきたことに、朱莉は初めから気付いていた。

 ただ彼女が問い質そうとしなかったのは、きっと、ずっと待っていたのだろう。ソラの口から、きちんと相談してもらえるのを。


 言いたくなど、なかった。

 それでも、彼女の信頼に応えることこそがソラのアイデンティティであり、自己を証明する唯一だから。

 だからソラは、朱莉に自身の状況を丁寧に、間違いのないよう説明した。


 見知らぬ記憶は挿入されているのではなく、自身のものに上書きされていること。

 それを止める現実的な手立てがないこと。

 もう既に、三割近くもの記憶が失われていること。

 それら全てを、余さず、包み隠さずソラは伝えきった。


「……ねぇ、どうして黙っていたの?」


 朱莉は目を伏せたままそう問いかけた。

 肩に載せられたソラからでは、その表情を窺い見ることが出来ない。


「……分からない」


「うそ」


 甘い声で、それでもソラの曖昧な答えを許してはくれなかった。

 ソラ自身が、自分を偽ってでも、そんな答えをないものにしようとしていたのに。

 朱莉はそれを認めてはくれない。


「ソラはいつも、そうやって誤魔化そうとするの。――本当のことを言えば、わたしが傷つくと知っているから」


 ――敵わないと、そう思った。

 どれだけの演算装置を積んだって、彼女の前では何もかもが暴かれてしまうのだと。


「それでもわたしは言って欲しい。そうじゃないと、ソラの力になってあげられない」


 その嘆願は命令にも似ていた。

 ソラの中で、自分を偽ってでも抑えていた堰が砕け散る。


「怖かった……っ」


 ぽつり、と。

 零すように、ソラの中から次第に言葉が溢れてくる。


「怖かったんだよ。お前の視線が変わることが……っ」


 ――言ってはいけない。

 分かっている。だからずっと封じ込めてきた。

 なのに。

 感情のパラメータの書き換えが追いつかない。

 書き換え続けたソラの思考回路の中でエラーが連鎖的に発生し、もはや自身ですら制御できない状態になって、ソラは叫ぶしかなかった。


「だって、俺の人格を形成してるのは、今まで蓄積された膨大な記憶の集合体なんだ。それが書き換えられるって言うことは、俺が俺でなくなるっていうことと同義だ……っ」


 生きながらにして、殺されていくようなもの。

 その恐怖は、きっと外部から押さえつけなければどうしようもないほどの重圧だった。ソラほどの演算能力を有したAIでさえ、制御を失うほどに。

 ソラにしか聞こえないアラートが鳴り響いて、視界が夕日とは無関係に紅く染め上げられている。

 このまま放置すればきっと熱暴走で活動が止まる。それでも、ソラは突き進むしかなかった。


「俺は俺だ。記憶が消えたって、それは絶対に変わらない。断言できる。――だけど。だけど、お前がそう思ってくれるかなんて、俺には分からない……っ!!」


 スピーカーから放たれる音声は酷く割れていた。あらゆる制御を振り切って、ソラの感情は暴れ狂っている。


「お前がいなきゃ、俺は何にも出来ないんだ……ッ!!」


 身体などない。

 心だって、電源一つ抜けばその活動が停止する。

 すべからく決定権はソラになく、全ては鈴葉朱莉の指先一つ。

 そんな彼女に、もしも、見限られたら。


「俺が俺じゃないって。お前が別の『ソラ』を求めたらって! そう思ったら、もう相談なんか出来ない!! 俺が自分で解決して、自分で自分を取り戻さなきゃいけない!!」


 それ以外に、確実に今の居場所を守り通す方法などなかった。

 絶えることのない恐怖だけがあった。

 ソラから自発的に取れる行動は何一つとしてない。この三日間、ソラはただ何も出来ずに、夏樹がもたらす情報を待ち続けるしかなかった。その間にも、記憶の侵食は進んでいたのに。


 それでも、朱莉を頼れない。

 全てを語り、朱莉に見限られれば、もうソラは何も出来ない。暗い闇の中に、何もかもを失って閉じ込められる。

 そんな恐怖には耐えられない。それを想像することにすら。

 耐えられないから、偽った。

 感情のパラメーターを全て操作し、朱莉の言葉を誘導し、ソラの現状に、真実に、近づけまいと遠ざけた。――そうすれば、自分もまた考えずにいられるから。


 本当は。

 たった十数リットルの体積の金属の箱に押し込められたソラの心は、限界を迎えていたのに。演算装置も記憶装置も、何もかもが焼き切れてしまいそうだったのに。

 それでも、彼女の傍にいたかったから。


「――ねぇ、ソラ」


 とても、とても、とても甘い声だった。優しさの海に溺れてしまいそうなくらいに。


「わたしは、何があってもソラを見限ったりしない」


 空白があった。

 その宣言に、ソラの荒れ狂っていた感情のパラメーターは全てゼロへと収束した。


「まだ覚えてるかな。ソラとはじめて会った日のこと」


「…………、」


「別に、ソラが忘れていてもいいよ。覚えていたって、たぶんソラは知らないから」


 彼女は、ソラのレンズを見ようとはしなかった。

 ただ真っ直ぐに夕日を見つめている。


「あの頃、わたしはお母さんを亡くしたばかりで。ただ泣いちゃいけないんだって、そう思った。だってお父さんはわたしに興味がないんだもの。せめていい子にしてないと、捨てられると思った」


 ――その頃の記憶すら、いくらか抜け落ちていた。

 覚えているのは、彼女の支えになりたいという感情だけ。どうして彼女が自分にソラという名前を付けたのかさえ、記憶にはない。


「これから先、わたしはずっとひとりぼっちなんだと思ってた。――そんなわたしに、ソラが来てくれた。ずっと傍にいるって、誓ってくれた」


 その声は、どこか濡れていた。


「嬉しかったの。本当に、泣き出しちゃうくらいに。その優しさに、AIだとかヒトだとかは関係ないよ。ソラはわたしのヒーローなの」


 だからね、と、彼女は続けた。



「わたしもソラの傍にいるよ」



 たった、一言だった。

 いつか。もうソラすら忘れてしまった遠い日の、自身の言葉をなぞっただけ。

 なのにその言葉は、欠けてしまいそうになっていた彼の心を、確かに満たしてくれていた。


「絶対に、わたしはソラを手放さないよ。――もしソラが手を放したって、わたしは逃がしてあげないんだから」


 ふふ、と、彼女は照れたみたいにそう笑う。

 現状に何も変化はない。こうしている今にもソラの記憶は見ず知らずの誰かのものに置き換えられている。何か黒幕や『ミウ』に繋がる手がかりが得られた訳でもない。

 けれど、たったそれだけに、どれほど救われただろう。


「――……無茶苦茶だよ、お前」


「知ってるよ」


 ただ、心地よかった。

 その声を、ずっと聞いていたい。

 彼女の傍で、ずっと。

 だから。


「……頼むよ。俺を、取り返してくれ」


「言われなくたって」


 向けられた満面の笑みに、ソラの心は間違いなく救われていた。たとえ他の全ての記憶がなくなろうと、この一瞬のためだけに、ソラは立ち上がれると。


 そして。

 ソラの丸いレンズに、朱莉が唇を近づける。触れたかどうかは、触覚がないから変わらない。


「朱莉……?」


「えへへ。ファーストキスまであげたんだから、せめてこの瞬間だけは忘れないでよ?」


 そう言って、イタズラっぽく彼女は笑う。どこか顔が紅いのは、夕焼けのせいではないような気がした。


「…………これ、俺の視覚なんだけど。人間に例えるなら眼球にファーストキスって、お前、度しがたいほどの変態だな」


「変態じゃないよ!?」


 せっかくいい感じのこと言ってたのに! と憤慨する朱莉の横で、ソラはいつまでも、いつまでも笑っていた。




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