第二章 心 -9-
――目が覚めたとき、まだ『自己』が残っていることに安堵する。
――だが、それはすぐさまいつ消えるかという恐怖に上塗りされてしまう。
「ほら、起きろよ。もうこのやりとりは飽きたって何度言ったらいいんだよ、ご主人様」
あれから三日。何事もなかったかのようにソラは平静を装いながら過ごしていた。
感情のパラメータは常に偽装し続けている。声色は平素と何ら変わらず、呆れたように、いつも通り布団の繭に閉じ籠もる鈴葉朱莉に向けられている。
「あと五分……」
「お前の五分の感覚に合わせてたら一日が一〇〇時間を優に超えるんだが」
そんな会話の間にすら、ソラの記憶は失われているのかも知れない。
先週の続きが今週であることを、昨日の続きが今日であることを、二時間前の続きが今であることを、もうソラには認識できない。いつ、どこでどれほどの記憶が抜け落ちているのか。それすらもはや分からないのだ。
もしもソラがAIでなかったのなら、きっと今頃は狂ったように泣き喚いていたに違いない。自分が自分でなくなる恐怖など、おおよそ人の精神に耐えられる限界を超えている。
そんな怖気に耐え忍びながら、ソラは『いつも』の中に身を置き続けた。
本当は、朱莉に真っ先に報告するべきなのだろう。ユーザーの道具であるパートナーAIの不調だ。隠すことに義はない。
だが、ソラはそのことを報告していなかった。
彼女がその程度でソラを見捨てるはずはない。かといって、見境なく取り乱すような愚かさも持ってはいないだろう。きっとそのとき選ぶべき最善を、朱莉ならば見つけてくれる。
分かっている。そんなことは、誰よりもソラが知っている。
――それでも。
理屈などもはやないに等しい。ただソラにはそれが出来なかった。朱莉にだけは、この事実を伝えることがどうしても出来なかった。
どうにかこうにか朱莉を叩き起こして、ソラの意識はキッチンへと移る。
メニューを選ぶことさえ躊躇われる。昨日に何を出したかなど分かっているのに、それでも自動調理機の履歴を閲覧して安心を得てからでないと、また同じ物を作ってしまうのではないかと怯えてしまう。
顔を洗い髪を梳いて、いつも通りの美少女然とした姿を取り戻した朱莉がリビングに顔を出す頃には、和食で統一された朝食を並べていた。
「あれ。珍しいね、朝から和食なんて。いっつもだいたいベーコンエッグとトーストだけだったりするのに」
ドキリとした。
まるで今の自分を否定されたような気がした。
「……たまにはいいだろ? ASC関連で頑張ってるしな」
さっと適当な嘘を織り交ぜて、ソラは誤魔化す。――記憶が別の物に上書きされていることを悟られまいと同じことを避けるあまり、ルーチンワークすら崩れてしまっていたらしい。密かに行動方針に修正を加える。
「それより、今日は何するんだ?」
さりげなく会話を食事から逸らしてソラは言う。朱莉の方は箸を咥えながら「んー」と考え込む。
「正直、ASCに関しては夏樹ちゃんの情報待ちだよね。今のところ、ミウっていうのが黒幕に一番近い存在な訳だし」
「そうだな」
「無理にASCをプレイしてソラを危険に晒したくはないね。今でも十分に危ない状況ではあるんだろうし」
朱莉は、ソラの記憶が上書きされていることを知らない。あくまで、謎の記憶が挿入されているだけだと思っている。
それでもこれだけ心配してくれる。できる限りの危険を排除しようとしてくれる。
こんなにも優しい彼女に報いたいと、心の底からソラは思う。
――けれど。
果たしてそれは、本当にソラの思考なのだろうか。
「――ッ」
気付いて、思わず悲鳴を上げそうになった。
ソラはAIだ。その性格はかなりの割合でプレインストールされたものに依存しているが、それ以外の部分は、マスターやその他の人間とのやりとりから、つまりは蓄積した膨大な記憶データから、絡み合うように構成されていく。
その記憶が、今は上書きされている。
ならばこうして喋っているソラは、ソラの人格と言えるのか。
気付いていないだけで、もうとっくにソラとしての人格は破綻していたのではないか。
その可能性に思い至った瞬間、ソラは恐怖で覆い尽くされた。ソラにだけ聞こえるアラートで、AIの心理状態が危険域に入ったことを知らせている。このままでは、ソラの人格は記憶に関係なく過剰な感情の動きで破損する。
「ねぇ」
その呼びかけで、はっとソラは我に返る。慌てて時刻を確認するがソラが思考に没していた時間は一秒もない。朱莉が何かに気付けるとは思えない。
「どうした?」
「今日って、何か他に用事ってあったっけ?」
「少なくともスケジュールとして管理している中にはないけど」
「じゃ、いいかな」
そう言って、朱莉はにっこりと微笑んで続けた。
「今日は、デートしよっか」




