第一章 白き翼 -1-
初めて彼女を見たとき、機械みたいだと思った。
無機的なシステムであるのは己の方だというのに、そんなことを棚上げにしてしまえるほど、彼女の姿は痛ましいくらいに歪だった。
――その邂逅は、彼女の母が亡くなったひと月後のこと。まだ小学校に入学すらしていなかった彼女にとっても、理解は出来ずとも悲しみに暮れるであろう、そんな時期だった。
けれど、彼女は笑っていた。
当時から既にハッキリとした目鼻立ちで、一〇〇点満点の笑顔のまま、彼女は買い与えられたその端末に顔を向けていた。
それが、彼にはどうしようもなく機械のように見えたのだ。
くりくりとしたヘーゼルの瞳は、よく見れば今にも泣き出しそうなくらい濡れていて、けれど、じっと、まるで睨むみたいに前だけを見据えていて。
きっと、彼女は自分が泣くことを悪いことだと決めつけていたのだろう。
たった一人で、愛した母親への手向けとして、二度と泣かないと決めたのだろう。
貼り付けた笑顔の下の痛々しい覚悟が透けて見えるようで、彼はありもしない胸を抉られたような気持ちになる。
「――はじめまして、我がご主人様。今日から俺が、君のパートナーAIを務める」
プリセットされた挨拶で、端末から音声を発する。あやふやな、作られただけの人格で、それでも憐憫を排し、できる限りの優しさだけを込めて。
「はじめまして。わたしは、すずはあかり。あなたのおなまえは?」
「それを決めるのは君だ。――好きな名で呼んでほしい」
そう応えると、よく出来た子供を演じながら、彼女は首をひねる。
「うーんとね。じゃあ、ソラにする」
「ソラか」
「うん。だって、好きなおなまえなんでしょう? お空にはお母さんがいるんだって。だから、わたしはお空が好きなの」
起動したばかりのAIにだって、人の死は分かる。分かってしまうから、なんと応えればいいのか一瞬判断に迷った。
だけど、だからこそ、言ってあげなければいけないことがあると思った。
「……改めまして、我がご主人様。俺の名前はソラだ。――そして」
あらかじめ規定されたシークエンスはここまで。
けれど、その日、彼は誓いを立てた。
「これから先、俺は何があっても、君の傍にいるよ」
そんな言葉一つが幼い子供の心の響くかなんて、AIの心にはまだ分からなかった。
それでも、ようやくのように溢れた子供らしい涙を見れば、答えなんて分かり切っていたのかもしれない。
*
――それが、遡ること十年前のこと。
いま思い返しても、当時の彼女は出来すぎているくらい出来すぎていて、それがむしろ不安になったくらいだった。
「なのに、だ」
呆れたような声で、彼――朱莉のパートナーAIであるソラは、机の充電器に刺さったままの端末の内向きカメラからベッドの様子をうかがい見る。
真っ白な布団を繭のようにして、何かが寝ている。
時刻は午前九時を回ったところ。
平時であればとうに始業時間に遅刻しているし、夏休みに入った今ですら部活の開始にも間に合わない可能性が出てくる、そんな頃だった。
「あの頃の物わかりの良さも利発さも微塵も残っちゃいねぇなぁ……」
初めて出会った頃は子供らしくあって欲しいと願ったものだが、今となってはそれを悔やむばかりである。――何を間違えば、あれほど悟り達観していた少女が、アラームの音から逃れるために布団の繭に引きこもるようになってしまうのだろうか。類い稀な演算能力を誇るAIのソラですらこれは謎のままである。
「ほら、もう九時過ぎたぞ。お前が午前から部活やるって言い出したんだろ、責任を持って起きろよ部長」
ジリジリとけたたましく響くアラームの音量を一段上げ、さらには彼女が好きなアップテンポの音楽を鳴らしながら、ソラは繭の向こうへと呼びかける。だが、中の蚕はまるで死んだかのようにリアクションを取らない。徹底抗戦の構えである。
「……お前な……」
もはや呆れるしかないソラだが、見捨てるという選択肢がないのも辛いところだ。
――この時代において、ICTは高度に発展を遂げた。もはや人のニューロンを擬似的に再現したAIなどが手に入る時代であり、それが全ての情報端末・家電製品の扱いを取り仕切ることも珍しくない。
こうして朝の目覚ましから、朝食の準備、その日のスケジュール管理と、何から何まで彼らの補助を借りるのだって。
当然、それが彼ら――ソラを含むパートナーAIと呼ばれる物の仕事であり、存在理由だ。どれだけ面倒な相手でも、システム上マスターを見放すわけにはいかない。
「お前、これ以上抵抗するなら――……」
「もー、うるさい」
バシッと彼女は枕元に置いてあった腕時計型の端末に手を伸ばし、何かを操作する。途端、アラームも音楽も、ソラの発する合成音声さえも、全てがシャットアウトされた。
携帯端末や機器がこれほどに発展したあまり、個別に全てを管理することは困難になっている。それ故に、それらはあらゆるデータをクラウドに上げ、全てが全てを管理する包括的なシステムを組むようになった。最近ではコンピューターもタブレットも、それらの端末全ては『Ubiquitus Imformation Terminal』の頭文字を取ってUITと呼称される。
当然、彼女の手元の腕時計型のウェアラブル端末でも、ソラがメインで音声を発しているタブレットを操作し、音量をゼロに出来る。
身体を持たないソラからそれらを奪ってしまえば、もう眠りの国のお姫様に干渉する術はほとんど断ったも同然だ。
「あと五分でいいからぁ……」
静謐を手に入れた彼女は、白い繭の中に再度全身をすっぽり埋め、また夢の国へ旅立とうとする。
「……っ」
流石に、ソラにも我慢の限界だった。
確かに直接触れられない以上、ほとんど彼には何も出来ない。
だが。
UITは、名前に反して情報端末だけに限らない。部屋の扉のロックはもちろん、ウォークインクローゼットの開閉や、机の引き出しに至るまで、IoTは徹底的に拡張されている。それら全てがUITだ。
その気になれば、端末一つで何だってジャックできる。それが出来れば、工夫と演算次第で限られた行動から無限の結果を引き起こせる。
『いい加減にしろ、クソご主人様』
声を発せられない代わりに、朱莉が引き込んだ腕時計にそんな文字を映し出すと同時。
カーテンと共に窓を勢いよく開け放ち、ばさばさと高層階特有の強風で部屋の中をかき乱す。コピー用紙の束がほどけ、部屋を鳩の羽のように白く埋め尽くしていく。
「うー、分かった、起きる! 起きます! だから窓しめて!!」
観念したように白い繭を脱ぎ捨て、彼女は寝ぼけ眼をこすりながら端末へ向かって頬を膨らませて、十年前よりも子供らしい仕草で怒ってみせる。
綺麗に染められた長い金髪も寝癖でくしゃくしゃになっていて、せっかくの透き通るような白い肌も涎のあとで台無しであるのだが、ギリギリで可愛いという水準を保てるのは彼女のポテンシャル故だろう。
「この起こし方はやめてって言ってるのに。あと五分って言っても全然聞いてくれないし……。主人の命令を無視するAIとか根本的に間違ってるよ……」
「そんな自堕落な目的の言葉を命令と見なすかよ。――馬鹿なこと言ってないでさっさと支度をしろ、支度を」
ソラの指示に「はぁい」と、どっちが主人だか分からないような返事を返す朱莉を見送って、ソラは自身の意識をタブレットからキッチンへとシフトさせる。
AIの進化、機器の高品質・低価格化など様々な外的要因と、あとは単純に朱莉の目新しい物好き、裕福な暮らし、という内的要因とが合わさって、鈴葉朱莉の部屋のキッチンは随分と豪奢な作りになっている。
AIによる調理はオーブン型の全自動調理機が主流である中で、あえてのロボットアームタイプの全自動調理機が導入されている。――何でも、この方がソラが作った感じがするから、だとかなんとか。
とは言えソラが一から操作するわけもなく、使い慣れたロボットアームに適当なレシピの番号を入力し、自動でプログラムを走らせていくだけだ。
ロボットアームが業務用と見紛うような冷蔵庫からベーコンと卵を取り出し、食品庫から食パンが呼び出される。ほんの一分ほどで、それらが手際よくベーコンエッグとトーストへと変貌を遂げていた。調理も何も、ほとんど取り出して焼くだけではあるが。
「――今日もトーストとベーコンエッグなの? たまにはもっと凝った朝食にしてよー」
顔を洗い髪をさっと梳いた鈴葉朱莉は、キッチンに入ってくるなりロボットアームの隙間を縫って前に立つと、メニューに文句を言ってきた。
元来の可憐さを取り戻した彼女が立つだけで機械的なキッチンも一気に華やいだ。しかし、いかんせんまだ睡魔は彼女の両肩に重くのしかかっているらしく、ヘーゼルの目はほとんど開いていない。立ったままで船をこぎ出す始末だ。
「お前の出発時間を考慮した調理時間で出来るメニューはコレしかセットされてないからだ。文句があるならあと十分早く起きろ」
「うぅん、わたし朝弱いし……。ほら、春眠暁を覚えずって言うし……」
「今は夏だアホ」
「マスターをアホって言うとかどうなってるの……? ふぁぁ……」
身支度を調えつつあるというのに、彼女がそのままキッチンの調理台に突っ伏すように倒れ込んだ。
「おい、朱莉」
「すやぁ……」
秒速の就寝に、流石のソラも呆れを通り越していっそ感心してしまう。
だが、もう悠長に起こしている時間はない。今さらキッチンタイマーをハックして騒音を撒き散らしたところで、ところ構わず寝ようとするお姫様の耳には届かないだろう。
はぁ、とどこまでも人間くさくソラはため息をつく。
そして、いい加減に頭にきたので説教すら諦めて実力行使へ移行する。
ロボットアームの全タスクを一時中断、それらの制御権を既定プログラムからソラ自身へ委譲。これで、身体のないソラは擬似的に身体を手に入れた。
ぎゅいんぎゅいんとモーターを鳴らしながら、ソラは慎重に狙いを定める。――が、その気配にも目覚める気配はない。
硬い金属の拳を握り締め、少女の丸い頭蓋のそのてっぺんへと、ソラは容赦なくそれを振り下ろすのだった。