第1話 霊感少年は漆黒の騎士と出逢う
鉛色の曇天は、少年の心を鏡写しにしたかのようだった。
白塗りの無機質なコンクリートでできた、高校の屋上。
眼下に広がる住宅街の向こうに見える山々の、さらに向こうまで、曇天は広がっていた。
このどこまでも続く曇天と同様、少年の心も、奥の奥まで薄暗かった。
もはやーーーー希望など一片もなかった。
転落防止用のフェンスを乗り越え、屋上の端に立つ。
自分がこれから飛び降り自殺をしようとしていると知ったら、みんなはどう思うだろうか。驚くだろうか。悲しむだろうか。
ーーーーいや、驚きも悲しみもしないだろう。
クラスメイトの連中は、「あの気味の悪い根暗がいなくなって清々した」と思うだろう。
両親は「肩の荷が下りた」と安堵し、自分の学校で自殺者が出たことを知った教師たちは、保身に走って責任逃れを繰り返すだけだろう。
誰も助けてはくれなかった。
もううんざりなんだ。
この世界にも。そして、この「力」にも。
「ーーーーさようなら、このクソったれな世界」
それが、僕が世界に向かって吐いた、最後の捨て台詞だった。
そして僕は重力にしたがって、真っ逆さまに飛び降りた。
ぐるんと視界が歪みーーーー暗転する。
◆
人に視えないモノが見える。
ただそれだけのことで、少年は差別の対象となった。
人に視えないモノとはすなわち、この世ならざるもの。
世俗的な呼び方をするならばーーーー「霊」。
厳密には「視える」こともあれば「いる」こともあるし、「感じる」こともある。
霊は人々が思っているより、意外にどこにでもいるものだ。
それが視えるーーーーただそれだけのことなのに。
それは自分の中では当たり前のことなのに。
なのに少年は後ろ指をさされ、周囲のコミュニティからことごとく迫害された。
「うわっ!ユーレイくんが来たぜ!」
「気をつけろ、取り憑かれるぞ!ぎゃははは!」
いつしか定着したあだ名は「ユーレイくん」。
少年自身が寡黙な性格だったこともあって、それが幽霊のように映ったのだろう。
ユーレイくんは、笑われる程度ならまだかわいいものだった。
中には本気で気味悪がり、露骨に避ける者もいた。
「どうしてそんな嘘ばっかりつくの‼」
唯一の拠りどころであるべきはずの両親も、少年を理解してはくれなかった。
嘘ではない。現にこうしてしっかりと眼に映っているのに。
デパートの階段の踊り場で首をくくってぶら下がっている男。
しかしその姿は、母にはいっさい視えていない。
「お前のせいでウチが近所で何て言われてるか知ってる⁉ 『幽霊屋敷』よ!お母さんの気持ちも少しは考えたらどうなの!」
ヒステリーを起こした母は、少年を容赦なく何度もぶった。
いつしか少年の表情はみるみる消えていった。
この力は、結局少年が生きているあいだ、一度とてその恩恵をもたらしてはくれなかった。
自分の目に映る、ごく当たり前の光景を見ているだけなのに。
どうも世間はそれが気に食わないらしい。
テレビでも専ら心霊特集なんかで、メディアを相手に力を発揮している霊能者はたくさんいる。
その力が本物かインチキかはさておき、彼らと自分は、何が違ったのだろう。
彼らはどうやってその地位を獲得したのだろう。
どうやってこのコンプレックスを乗り越えたのだろう。
ーーーーそして少年は。
乗り越えられなかった。
誰にも理解されないこの力と、残り数十年もの人生、うまく付き合っていける自信がなかった。
おかしな大人への風当たりは、子どもよりももっと強いはずだから。
だから少年はーーーーここで命を、絶つことに決めた。
存在意義を見失った少年は、生きることに、疲れてしまった。
◆
あの後、自分はどうなっただろう。
きっとそのままグラウンドに叩きつけられ、ぺしゃんこになって死んだはずだ。
ーーーーしかし。
どういうわけか、少年の意識を死後の「無」の世界から引っ張り上げようとする力が、どこからか働いているのだ。
その力のせいで少年は、まるで水底から引き上げられるように、ぐいんと意識を取り戻した。
「ーーーーここは?」
薄目を開け、顔を上げると。
そこは学校の屋上でもなければ、グラウンドでもなかった。
深い深い、夕暮れの森の中。
鬱蒼と生い茂る樹々のあいだに、少年はぽつんと座っていた。
「・・・夢?」
樹々のあいだから差し込む、オレンジの斜陽。
しかしちょうど日没寸前で、その光も夕闇の侵食で徐々に弱まりつつある。
ーーーー夜が、来る。
「ここはいったい・・・」
死後の世界ーーーー
そんな不吉な言葉の羅列が脳裏をよぎった。
しかし、それにしては意識は鮮明だし、自分の身体には何の異常もない。
自殺者は自分の死の瞬間を永遠にくり返す悲惨な末路を迎えるというが、見たところ自分の死の瞬間をくり返しているわけでもなさそうだ。
(夢なのか。それとも現実なのか・・・わからない)
虚ろな心持ちで、少年はよろよろと立ち上がった。
そして、闇に包まれようとしている森の中を、出口を探してあてどなく歩き始めた。
◆
どれくらい歩いただろうか。
棒になった足から感覚がなくなるほど歩いた頃。
森の出口が見えた。
どういう原理で、何が原因でこんなところにいるのか皆目見当がつかなかったが、このとき少年は漠然とした予想を立てていた。
ここは日本の山奥だ。たしかに自分が住んでいる街は三方を山に囲まれていた。その山の中のどこかだろう。
校舎から飛び降りて、おそらく不本意ながら生き永らえて、おそらく救急車で運ばれて・・・それから・・・それから?
どう頭をひねっても、そこから先の整合性がとれない。
たとえ生き永らえていたとしても、今こうして自分が無傷のままどこかの山奥に放置されている状況の裏づけにはならない。
そして最も不可解なのは、自分が五体満足で、まったくの無傷であることだ。
もし仮に飛び降り自殺から生還したとしても、四階の屋上から地面めがけて飛び降りたのだから、本来なら全身の骨が粉砕されてもおかしくはない。
何か科学や理屈では説明できないことが、自分の身に起きているーーーーそう少年が悟るのに、それほど時間はかからなかった。
そして森を抜けたーーーーその先の光景を目にして、少年は愕然とした。
「・・・・・・え・・・?」
目の前に広がっていたのは。
墓石。墓石。墓石。
煌々とかがやく蒼い満月を背景にして、広大な墓地が続いていた。
「なんでこんなところに・・・墓地が・・・」
しかも墓石のひとつひとつを眺めて、少年は気づいてしまう。
ーーーー日本の墓地ではない。
精巧な技術でアーティスティックな彫刻が施された、洋風の墓標ばかり。
こんな墓標は見たことがない。
(やっぱり僕は死んだのか・・・?)
一歩一歩、おずおずと足を踏み出しながら、墓石のあいだを進む。
その墓地はもう何年も手入れが行き届いていないようで、足元を見れば雑草が伸び放題、墓石のひとつひとつは色褪せ、表面も摩耗し、誰の墓か判別がつかなくなっていた。
(・・・・・・?)
ざしっ。ざしっ。
(・・・・・・!)
ざしっ。ざしっ。
たった今、少年は気づいた。
自分の足音に混じって、別の足音が聞こえてくることに。
すぐ後ろからーーーー何者かがぴったりとつけてくるのだ。
少年は足を速めた。
しかし、草むらを踏みしめるその足音も速度を速め、同じ距離を保ったまま、少年の後を追いかけて来る。
ーーーー振り向いたら。何がいるのだろうか。
この感覚は、あのときの感覚と似ている。
この世ならざるモノと出逢ってしまったときの感覚。
背中を無数の小さな蟲が這い回るような。
ぬるっとした冷たい液体を背中に流し入れられたような。
全身が総毛立つ感覚を、今このときも感じていた。
「・・・・・・ッ‼」
振り返った視線の先に。
ーーーー女が立っていた。
襤褸きれのような薄汚い服に身を包んだ女。
腐った土気色の肌をした、顔の右半分がない女。
生きた人間では、ない。
「アなた・・・ワたしに、気づいテ、クレた?」
右半分だけの顔で、女がニヤリと笑みを浮かべた。
歯が一本も残っていなかった。
「見エル?見てル?ワタしが、見えるノ?」
うふふ、うふふふふふ。
女は狂喜するかのように、ケタケタと肩を震わせながら嗤った。
少年がすくみ上がっていると、
「うれシイ・・・ずっト、寂しかッタの・・・ココは誰も来ナイから・・・ずッと一緒にイテくれる人ヲ、探してタ」
この霊はタチが悪い。
今まで出逢ってしまった霊たちの中でも、この女は特にタチが悪い。
不快な悪意に満ちあふれている。
そう少年は直感で理解した。
「・・・来るな・・・!」
少年は後ずさり、声を絞り出した。
ーーーーおかしい。あれほど死のうと思っていたのに。
「ウフフふふ・・・恥ずかシがっテいるノネ?私にはワカルわ・・・わかル・・・ワカルわかるワカるわかる・・・‼」
今は、死にたくないと思っている。
この気持ちの変化はーーーーいったい何だろう。
「消えてください・・・ッ‼」
「ひどォイ・・・ツレない子・・・でも、連れてッちゃう・・・」
わからない。
自分がわからない。
でも、今はどうしてだかーーーー
「ワタシと一緒にイテェェェーーーーーーッッ‼‼」
ーーーー生きたい。
「ギャアッ‼??」
そのとき。
飛びかかってきた女の霊を、漆黒の影が斬りつけた。
女は突然腕を斬られたことに動揺し、後ろにのけぞった。
「イタイ・・・いたいイタイ・・・誰だッッ‼」
大きな影が、僕の前に立ちはだかった。
甲冑をまとった騎士ーーーーそんなイメージが浮かんだ。
影は、身の丈と同じくらいのリーチを持つ長剣を構えていた。
この剣で女の霊を斬りつけたのだ。
しかしーーーー何かがおかしい。
「貴殿・・・オーベルジュ墓場などで何をしていたのだね?ここは悪霊の巣窟だぞ」
騎士の身体は墨をかぶったように真っ黒だった。
どころか、手にした長剣さえも真っ黒で、手と剣の境目さえあいまいだ。
まるで騎士自体が「影そのもの」であるかのようなーーーー
「・・・あなたはいったい・・・」
「ほう、返事をするとは、私の姿が見えているのかね」
口ぶりからして、影の騎士も目の前の女の霊と同様、常人には視認できない闇の住人であることは確かなようだった。
「見えます・・・けど、あなたも霊の類なんですか?」
「似て非なるもの、と言っておこうか。それはさておき、人に名を尋ねるときはまず、自ずから名乗りたまえ」
ーーーー名前。
他人から名を尋ねられたのはいつぶりだろう。
「ユーレイくん」「お化け太郎」「化け物」。
みんな少年のことを不名誉なあだ名であざ笑った。
両親でさえ、彼を名前で呼ぼうとはしなかった。
このとき、少年は数週間ぶりに、自分の名を口にしたのだった。
「ーーーーシン、です」
シン。
「天ヶ崎 真」。
それが少年の名だった。
「ーーーーあなたは?」
騎士はーーーーもとい、影の騎士は、名を尋ねられて逡巡するそぶりを見せた。
が、やがて長剣を胸の前で構え、凛然と答えた。
「『黒騎士』ーーーーとでも呼びたまえ」
これが、霊感少年シンと、影の使徒「黒騎士」の出逢いだった。
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