穴
その男は自分の言葉を埋めるように穴を掘り続けていた。風はなく、瓶の底の澱のような雲が空を覆っていた。その雲の隙間を縫うように、魚が、空を往く。泣いているのだろうか。この男にはこれといった趣味も無く、荒野にぽつんと立つ小屋と、そこで待つ妻子のみが関心の向く対象であった。荒地に穴を掘る仕事を任されて数ヶ月-実際には勿論数えてない-が経過したが、ここには夥しい数の穴が存在していた。
タレナガスソラトビテンプウウオ。これは男の相棒とも言える、この空飛ぶ魚の名前だ。といっても時々その間抜け面を雲間から出してみせるだけだが。タレナガスソラトビテンプウウオ。口の中で咀嚼してみるが、ねっとりとした嫌な感触が張り付くだけだった。そもそも何を垂れ流しているというのだ。何でもここに物的な質量が増えれば、多少なり絵面も面白みが出るというのに。
こんな思考を繰り返し数ヶ月やってきたわけだが、不思議と不平や不満の類が生じることはなかった。この理不尽に対するひっくり返るような狂気だったり、私を燃やし尽くさんばかりの怒りといったものは、自然と掘った穴にまとめて捨てておくこといつの間にか出来ているようになっていたのだった。
ある日、いつもの様に荒地の片隅に正確な深さと直径で以て穴を掘っていると、不意に肩を叩かれた。この荒野には自分以外に誰一人生きているものはいないと考えていたために青ざめた顔で振り返ると、男とは別の男だった。その男が言うには、自分は穴を埋める仕事をしに来たのだ、勝手が分からないから基本を教えてくれないか、と言う。掘る男は、いやね、教えてあげたいのはやまやまなんだけどもね、僕はいままで穴を掘ることしかしていないから、勝手なんかこれっぽちも分からないんだ、と返した。じゃあ、あなたは赤ん坊の頃、歩くことが出来なかったでしょうが、母親に歩くことを教わったのですか、ではなぜあなたは歩いているのですか、とその埋める男がいうので、掘る男はとりあえず右を向いて、その後、首を後ろに傾けると、穴を掘る作業に戻った。埋める男はスコップを持って遠くを眺めていたが、やがて掘る男と並列に並ぶと、すぐ隣の穴を埋め始めた。空の魚は、目の前の小さなちぎれ雲を食むと、そっと雲海に戻っていった。やはりその日も風はなく、乾いた土の匂いが掘ったばかりの土と、埋め合わせた真新しい土から臭った。
翌日も、翌々日も、掘る男は、その埋める男とやらと仕事をしたが、何故か今まで気にもしてなかった、ゴミ箱の後ろに転がった紙屑のような思考が、途端に気になるようになったのだ。男は、きっと埋めてきた思考とかが、この隣の男が穴を埋めたせいで逃げ場をなくして溢れてきているのだろう、やはり基本は教えておかなければならなかった、と考えて、隣の男に、私の掘った穴を埋めるのは、よしてくれませんか、そこには私のアイディアがあるので、昔の考えを蒸し返されては気持ちよく仕事も出来ないのです、と言った。隣の男はシャベルを振るうのを止めて、こちらを見たが、突然泣き出してしまった。ごめんなさい、ごめんなさい、私は生活のため、穴を埋めなければならなかったのです。決してあなたを傷つけようなどとは考えていません。分かってください、分かってください。と繰り返すので、掘る男はなんだか気まずくなって、スコップをふるってまた一つ穴を拵えた。埋める男は這ってその穴に近づくと、二言三言呟くと、晴れやかな顔でまた穴を埋め始めた。魚は雲に溝を作って泳いでいた。