第1章 幕命 (5)
秋晴れの中、孫兵衛は兎毛とともに利根川を目指して馬上にあった。
房総派遣に向けた舟手足軽の鍛錬が行われていると聞き、様子を見に行こうというのである。
領内の田は刈取りを終えており、並足で駆けても乾いた稲わらが舞った。
馬を進めながら、兎毛は問う。
「いつになったら分かんだんべな。」
近頃は藩士が集まると、誰が派遣されるのかという話で持ち切りだった。
「さてな。
しかし、年内には着任とみていたが、この分では年明けか。」
諸々の準備を考えると三月はかかるだろう。孫兵衛は馬の首を左へ傾けつつ話題を変えた。
「酒巻あたりで堤へ上がろう。」
酒巻とは、水流の逆巻くことから付いた地名と言う。利根川と福川の合流地点にほど近く、利根川が氾濫すると福川へ逆流したことに由来するのだろう。
海流を乗りこなす鍛錬を行うとすれば、この辺りに違いない。
馬を引いて堤に上がると、数人の武士に出くわした。
「和田孫兵衛か。」
上格の者が声をかけてきた。家老の加藤左内である。
孫兵衛と兎毛は慌てて一礼した。家老まで来ているとは思わなかった。
「新井が舟手足軽の選抜をするというので見物に来た。」
新井とは舟手足軽を支配下に置く船奉行の新井嘉市であった。今日が鍛錬の最終日で、一人ずつ船を操らせ、房総へ派遣する者を選ぶのだという。
やはり海流を想定して、流れの複雑な酒巻の地を選んだらしい。
「ぴたりとこの堤に上がってくるとは。
この辺りの流れをご存じであったか。」
嘉市は驚いたように言った。
この一か月、よほど舟手足軽の鍛錬をしていたのか、浅黒く焼けている。
「利根を下る荷船は、いずれも酒巻を避けると聞き及んでいたまで。」
孫兵衛は嘉市に応じると、加藤に向き直って続けた。
「いつ頃でしょうな。房総へ発つのは。」
「何だかんだと二月になろうか。
今、鳥居が派遣する士分を選んでおる。
儂の口からは何も言いようがないぞ。」
孫兵衛はそれとなく聞き出そうと思って切り出したのだったが、見透かされて苦笑した。
「ところで孫兵衛は荻野流を学んでおったかの。」
「いや、頭の中で遊んでいるようなもので。」
「では、その頭で異国船や異人にどう立ち向かうかな。」
孫兵衛は言葉に詰まった。
この一か月、そればかりを考えてきたが良案が浮かばない。
孫兵衛が書物や義父から断片的に集めている知識では西洋の大砲には太刀打ちができそうもない。唯一、こちらが勝りそうなのは小銃の命中率くらいだった。
それには一旦上陸を許し、敵を引きつけなくてはならない。危険な賭けである。
「思案しておきます。」
孫兵衛は頭を下げつつ答えた。
加藤は無言でうなづくと、従者に帰り支度を命じた。新井も続けて舟手足軽に撤収を命じる。
「なかなかのもんだ。」
加藤達が引き上げると、兎毛は舟手足軽達の手際に感心して言った。
「桑名では海上七里の渡しがあった。
見ておるとやはり年配の者の手際がよいな。
海と川では勝手も違おうが、今の様子ではいくらも手間取るまい。」
孫兵衛は応じるが、先ほどの家老とのやりとりを気にしてか声に覇気がない。
「マゴ、大丈夫か。」
「俺は自分が情けない。
御家老にあの受け答えでは、房総に行けぬかもしれん。」
「まあ、俺よりはよかんべ。
御家老は俺など知らんようだった。マゴの従者とでも思われたか。
気にするな。マゴなら、きっと選ばれらぁな。」
兎毛が慰めるように言った。
「三人揃って行きたいものだ。」
孫兵衛は力なくつぶやいた。