第1章 幕命 (2)
孫兵衛が半刻の後に城門を出ると、兎毛が待っていた。
「いや、皆ぴりぴりしてたもんで。」
他の者には声をかけられなかったと言う。
兎毛の兄も登城していたはずだが、別の門から出入りしたのか、見かけなかったらしい。
孫兵衛は、そうかという顔だけして無言で歩いた。兎毛もついて来る。
大広間で家老が江戸からの書状を読み上げはじめたとき、藩主の急や国替えを知らせるものではないとわかって、居並ぶ者達は吐息をもらした。皆同じ懸念を持っていたらしい。
しかし、再び一同が不安な顔になるまでに、さほど時間はかからなかった。
やがて家老が「委細は追って沙汰する。」と話を打ち切り、脇に控えていた用人が解散を告げても、しばらく誰も立ち上がらなかった。事態を飲み込めずにいたのである。
孫兵衛も呆然として、大広間を出たのはほとんど最後であった。
もう少し頭を整理したかったが、兎毛がしきりに顔を覗き込んでくるので、面倒になってついに口を開いた。
「江戸湾の警衛をやるそうだ。御公儀の命でな。」
「どこぞが攻めて来んのか?」
アヘン戦争の事は、いまや武士ならば誰もが知っている。漠然とではあるが、諸外国への恐怖を誰もが感じていた。
「いや、どこぞが攻めて来たときに備えるそうだ。」
「そりゃ、いつだ。」
「いつ、とかいう話ではない。三十年程前に、白河と会津が江戸湾警衛を命じられてな。その任が解かれるまで十年以上かかったという。
あるいは、そのくらいとなろうか。」
「十年たぁ長いな。」
「誰が行くことになんだんべな。」
「まだ、御人数すら決まっていない。」
孫兵衛は兎毛に向き直って続けた。
「おまえ、行きたいんだろ。」
兎毛のような部屋住みの次男坊は、身を立てる方法が限られている。
養子や婿養子になるか武道や学問で名を成すかしない限り、一生を親兄弟の世話になって生きるしかない。
家督を継いだ兄になかなか子ができなかったため、隠居した親が兎毛を手放したがらなかったので養子に行き遅れ、兎毛は二十二になっていた。
養子に請われるのは、もう少し若い者だ。
兄の跡を継ぐのか、部屋住みのまま暮らすのか、先の見えない青春を兎毛は剣の道に捧げた。日夜誰よりも木刀を振り、十七の若さで小野一刀流道場で師範代となった。
やがて藩から江戸修行の許可を得たものの、忍の一道場で五本の指に入ったくらいでは、江戸の有名道場では全く相手にされなかった。兎毛も名立たる剣客達に圧倒され、己の実力を悟り、失意のうちに忍へ戻ってきた。
忍へ戻ってからも兎毛は毎日剣を振るった。十代のすべてを剣術修行に費やしてきたのだ。こんな腕でも鈍らせてはたまるかと、陽の高いうちは汗を乾かしたことがなかった。
じわじわと、あの頃のような情念が蘇ってくる。剣の腕がどれほど役に立つかわからないが、今回のような軍役を逃す手はない。
無意識に左手は大刀の鞘を握りしめていた。体中が熱い。掌の汗を鞘の下緒がみるみる吸い取っていく。
兎毛は声が荒ぶるのを抑えつつ、叶う事なら行きたいと答えた。
(俺を選んでくれ。)
心の内ではそう強く叫ぶ。
辺りは薄暗くなっていたが、無数の星が輝き始めていた。