第1章 幕命 (9)
孫兵衛が自邸へ戻ると、兎毛が待っていた。
客間のいつもの柱へ寄りかかって、既に酒を飲んでいる。
「今日は生垣を抜けてきてなかろうな。」
「あれは上を刈り込まねえと下が透けるんだ。」
兎毛はしばしば生垣を抜けて訪問してきており、家人も最近では気にしなくなっているほどだ。
この辺りでは生垣にシラカシを用いる。どこから手に入れた知識か知らないが、兎毛は手入れの不足を指摘してきた。今日も生垣を抜けてきたらしい。
孫兵衛は嘆息してみせるが、兎毛は気にする様子はない。
「さっき、御家老の使いが来たったぞ。
『委細承知であるから当家訪問には及ばぬ。
三日のうちに御下命のあるものと心得よ』だと。」
兎毛は徳利で孫兵衛に注ぎつつ、祝いの言葉を述べるが、笑顔はない。
やはり「兄が同伴する家族」でしかない自分の立場を気にしているようにみえる。
「おまえの立場では確かに活躍の場は限られよう。
だがいざとなれば、おまえも当然に駆り出される。」
言いつつ孫兵衛も注ぎ返す。
「そこだ。俺には剣しかなかんべ。
そうなると警衛を命じられながら、異人が上陸するのを待つんか。
マゴもいつか案じてたことだがな。」
「ほう。」
孫兵衛は兎毛の悩みが、既に今日の昼とは別の所にあることに感心した。
失意のうちに江戸から戻ったばかりの兎毛ならば、結局次男坊はいつまでも兄の影にあるばかりだと腐っていたかもしれない。
今の兎毛はわずかな立身の好機でも必死でつかもうと前を見ているのだが、その好機が日本の危機でもあることを憂いているのだ。
孫兵衛は大きくうなずいて持論を説いた。
西洋諸国は我らの想像を超えるほど発展した。
彼らの富国は通商の拡大によってもたらされているが、彼らの求める利益は西洋の外に犠牲を強いている。
日本は通商による富国を追い求めず、国を閉ざしたことで泰平の世を謳歌してきた。しかし、航海術の発達によって西洋すらもはや隣国となってしまった。
おそらく今後、通商の要求が増えてくる。これを認めれば国は弱り、断れば戦さとなるだろう。いずれにしても、やがて国を乗っ取られかねない。
「どうすりゃいい。」
兎毛が泣きそうな顔で詰め寄る。
「分からん。俺も毎夜考えて、気が狂いそうになる。
通商うんぬんは御公儀の裁決に任せるよりないが。」
忍藩は江戸湾沿岸の警固を任されただけである。
「はなっから戦さのつもりで異国船が来たら、どうすりゃいい。」
まずは、沿岸から砲撃を行って船の足を止めるが、どうしても押し通るならば、陸へ引き込んで斬り伏せるしかない。孫兵衛は淡々と伝えた。
兎毛は腕を組んで唸る。
「結局、陸で斬り合いか。」
「上陸を許せば後がないとはいえ、他に手立てもない。」
孫兵衛が嘆息すると、兎毛が立ちあがりそうな勢いで語る。
「ま、そうなりゃ異人の十人も斬ってやんべえ。
それまでは人足でもなんでもやってやる。好きに使ってもらおう。」
孫兵衛は再び大きくうなずいた。その心持ちがあれば大丈夫だろう。
兎毛は派手な活躍を思い描くが、兎毛が浮かび上がるのにまず必要なのは養子の口だ。必死に雑用をこなすだけでも縁組が見つかる可能性はある。
日々の訓練では、矢玉運びから狼煙の火付けまで雑用には事欠かないはずだ。
「異国船は必ず江戸湾へ来よう。
盤石の備えを築くのも手柄のうちだ。」
忍藩と藩士達にとっては、大阪の陣以来の軍事動員である。
藩士や家族は立場や思惑の違いはあっても、それぞれに「戦さ」に臨む覚悟を決めていったのだった。




