表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/18

序章

 十八世紀後半、西洋社会にとって世界地図の空白は両極地方と日本北方海域のみとなり、ロシア、イギリス、フランス、アメリカなどの艦船が様々な目的で日本近海に現れはじめた。


そんな中、寛政の改革で知られる老中・松平定信は、急速に植民地を広げる西洋諸国との接触を極力避けようと、鎖国を完成させた。

 それまで通商はともかく、来航自体を禁じられていたのは「カトリックの国」のみであったのを、清国、朝鮮、琉球、オランダ以外の外国船渡来を全面的に禁止したのである。

 定信は、この消極的な紛争回避策が長続きしないことを認識しており、海岸防備体制の構築が急務であるとして、海岸領地を持つ全国の諸大名に備えを怠らないよう厳命するとともに、ロシアの進出に備えて蝦夷地(北海道)の直轄化を行った。

 また、特に江戸の喉元である江戸湾(東京湾)の防備が最も重要と考えており、自ら視察も行った。


 定信が老中を退き、後継の老中達が海岸防備に関心を寄せない中、定信の懸念が現実化する。

 文化元年(一八〇四)、ロシア使節レザノフが通商要求のために長崎を訪れたのである。

 レザノフは半年も出島に閉じ込められたうえに要求をすべて拒絶され、帰国後、武力による開国要求が必要であるとロシア皇帝に上申した。後にレザノフ自身がこれを撤回するものの、その部下は独断で二度に渡って樺太や択捉を襲撃した。

 続いて文化五年にはイギリス軍艦フェートン号が、オランダの商船を拿捕しようと船籍を偽って長崎湾へ侵入、オランダ商船不在のため出島商館員を一時人質にとり、薪水・食料を強引に提供させて立ち去るという事態に至った。


 これを受けて文化七年、幕府は会津藩、白河藩に対して江戸湾の警固を命じた。

 すなわち会津松平家(二十三万石)を相模沿岸、久松松平家(十一万石)を上総・安房沿岸に配置したのである。

 このとき白河藩主は老中を退いた松平定信であった。


 それでも平穏無事に数年が過ぎ去ると、幕府内部では楽観的な見方が大勢を占めるようになった。

 西洋諸国がはるか遠方の日本にまで戦争を仕掛ける気などあるはずもなく、先年の外国船の乱暴狼藉は海賊船の類によるものに違いないというのである。

 こうして文政三年(一八二〇)、文政六年と相次いで会津藩、白河藩の江戸湾警固の任を解き、浦賀奉行などによる体制へ移行、常駐兵力はほとんど十分の一となって、江戸湾の警固体制は大幅に縮小した。


 文政八年の「異国船無二念打払令」はこうした中で発令されたもので、外国船を見かけ次第砲撃せよという攻撃的な方針の裏には、国家間の戦争という事態は全く考慮されておらず、とにかく外国船を威嚇して近寄らせなければ鎖国体制を維持できるという短絡的な判断によるものでしかなかった。


 ところが、アヘン戦争での清国大敗という衝撃的な知らせがもたらされると、天保十三年(一八四二)、「打払令」を撤回、代わって「薪水給与令」を発し、遭難船に限ってという条件付きながら、外国船に対して薪水を与え穏便に退去させる方針へと転換した。


 アヘン戦争により、海岸防備は再び全国的に緊急の課題となった。外国艦隊の襲来、戦争の可能性がいよいよ現実味を帯びてきたのである。

 幕府においては、天保の改革で知られる老中・水野忠邦らによって、江戸湾警固体制の再構築が始まることとなった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ