ヨハンナ・ベルの憂鬱
王宮の長い廊下を痩せた背の高い赤茶の髪の男が歩いている。彼の名は今話題のウェスティン侯爵その人だった。仕事が出来る男として宰相にも一目置かれているが彼自身はけして目立とうとはせず一日の殆どを自分の執務室で過ごしている。妻のバーバラは元は伯爵令嬢で色白、夫とは対照的に少しふくよかな体型に金髪碧眼で、結婚して20年経つが未だに十分魅力的である。二人は政略結婚で褥を共にし数度目に王太子妃候補と言われている娘ヨハンナ・ベルを授かった後は二人とも寝所は別にした。ヨハンナの下に息子が二人いるが二人とも父には似ておらず母の容姿も受け継がずバーバラ自身もいつの誰の子かわからないが、とりあえず侯爵自身が文句を言わずいるのをいいことに跡継ぎを産んだからと大きな顔をして侯爵夫人の座に居座っている。
ヨハンナ・ベルは父の赤茶の髪と灰色の瞳を受け継いだ。彼女は年頃になる前に父により外国の寄宿舎に入れられていたが本人はその事を密かにホッとして受け止めていた。何しろ幼い時から母親の話を使用人達が話すのを聞きたくなくとも聞きながら育ち、下に生まれた弟二人は確かに自分とは血の繋がりがあるが決して父の血を引いていないのは見るもの全てがすぐに気付く。だからヨハンナは母親を汚く嫌悪し、寄宿舎に入る前に父の言った言葉を大事に育ってきた。
「ヨハンナ・ベル。私はお前ほど可愛い存在はこの世に二つとない。そんなお前を遠くへやるのを許しておくれ。ヨハンナ、私達夫婦は形ばかりの結婚生活だった。だから、お前には幸せな結婚をして欲しい。もし、好きな男性ができたらバーバラがなんと言おうと添い遂げられるよう努めるよ。」
そして、社交デビューに一時帰国したがすぐに寄宿舎に戻って行った。ハヴェルンでは、好色な母親を持つ娘を権力の為ならいざ知らず、侯爵の二の舞を踏むかもしれないという気持ちがヨハンナの周りから男性を遠ざけていた。そのヨハンナ・ベル・フォン・ウェスティン侯爵令嬢が18になり帰国すると母親から思いもよらぬ言葉を聞かされる。
「貴女は王太子妃になるのよ。」
何を馬鹿な事を。ヨハンナはうんざりしながら話を聞き流していた。確かに容姿は父に似て痩せ型だがすらりとしたスタイルで、母の色白を受け継いだ肌は滑らかで美しく控え目な表情とは正反対に自己主張する赤茶の艶のある髪を持つ年頃のヨハンナは美しかった。しかし、有名な好色夫人の娘が国の妃として受け入れられるはずがない。あのまま異国の学校で教師にでもなればよかったと、後悔していたある日またしても母親がもうじき誕生日だから二人の王子殿下にも招待状を出したと笑顔で話してくる。何ということ!この厚顔無恥で破廉恥な母親を王家の殿下方に見られるのかと思うとショックのあまり、自室に籠り毎日を沈んだ気持ちで過ごす事になった。
いま、廊下を珍しく早足で歩いている侯爵の行き先は王太子の執務室であった。とりあえず謁見の申し込みをと彼は急いでいた。今朝のバーバラの話ではまだ王子二人からの返事がないと、是非とも祝ってやって欲しいと仮にも一国の王家の人間にせっついてこいというのだ。侯爵はこれを聞いてしめたと思った。今なら間に合う、今なら我が家へお越しいただくのを止められる。その思いで彼はなお早足になった。執務室の前でまずは秘書官に目通りしたいと警備兵に頼んだ。暫らくして秘書室でまずは申し出を伝えることになった。よかった、間に合った・・・ウェスティン侯爵は神に感謝しつつ秘書官の待つ部屋へと向かった。