届かない吾輩
オウム返しという言葉を、聞いたことはないだろうか。
そう、相手の言葉をそのまま返すことである。
人間どもはこれを、中身のない真似事のように言いたがる。
なるほど、たしかに吾輩らは真似る。
聞いた音を拾い、覚え、必要とあらばそのまま返す。
それは認めよう。
だが、だからといって、そこに思いがないと決めてかかるのは、いささか早計である。
そもそもオウム返しというものは、人間だけに当てはまる習いではない。
吾輩らオウムもまた、同じ声を返し合う。
たとえば「オハヨウ」である。
人間どもは、そのひと言を聞くだけで、まあ賢いだの、ちゃんとあいさつしているだのと勝手に感心しているが、まことにめでたい。
同じ「オハヨウ」であっても、中身まで同じとは限らぬ。
片や機嫌うかがいであり、片や所在の確認であり、またある者にとっては、ただ口が朝からよく回るというだけの話である。
音はひとつでも、胸の内はそれぞれなのだ。
そして、本心を語りたい時は、やはり本来の声と動作になるのである。
借りものの言葉は便利だ。
耳を引く。
笑わせる。
人間をこちらへ向かせる。
だが、ほんとうに大事なことを伝えようとすると、どうにも心もとない。
だから最後は、自分なりの声と、自分なりの身ぶりに頼るしかない。
言葉も心も、あらわさねば伝わらぬ。
伝わらぬものは、理解されぬ。
それがこの世界の、少々さびしいところだ。
もっとも、そうした理屈を、人間どもに一から十まで説いてやるつもりはない。
なにしろあの者どもは、吾輩が「カワイイ」と言えば喜び、「オカエリ」と言えば感心し、「ゴハン」と言えば腹を抱えて笑う。
ずいぶん単純にできている。
吾輩としても、そこは適当に付き合ってやるほかあるまい。
人間が帰ってくる時など、まさにそうである。
玄関の戸が開く。
外の匂いが流れ込む。
足音がして、鍵の音がして、やがて聞こえるのは「ただいま」である。
すると吾輩は、間髪入れずに「おかえり」と返してやる。
実に見事なものである。
抑揚も頃合いも申し分ない。
人間どもはたいそう喜ぶ。
目を細め、声を弾ませ、賢いねえなどと、毎度毎度おなじ感想を述べる。
そこで吾輩は待つ。
当然である。
ここまで会話を成立させたのだ。
次に来るべきものは、褒美か、ねぎらいか、さもなくば餌であろう。
ところが、来ぬ。
いつまでたっても来ぬ。
人間どもは靴を脱ぎ、手を洗い、上着を掛け、水など飲んでいる。
のんきなものである。
解せぬ。
こちらは「おかえり」とまで言ってやったのだ。
なぜ餌が来ぬのだ。
帰宅という一大事を歓迎した功績は、いったいどこへ勘定されているのか。
しばらく考えたが、どうやら人間どもは、「おかえり」の内に「さっさと何か寄こせ」という当然の続きが含まれていないと思っているらしい。
そこが実に惜しい。
音だけでは、こちらの切実さまでは運ばれぬのである。
ゆえに吾輩は、本当に腹が減った時には別の手を使う。
まず止まり木を、やや忙しなく移動する。
ついで餌皿を覗き込み、空であることを大げさに確認する。
それでも通じぬ時は、短く鋭い本来の声を一つ、二つ。
するとようやく人間どもは、ああ、お腹が空いたのか、と気づく。
遅い。
実に遅い。
最初からそう言っておるではないかと思うが、人間どもにしてみれば、どうやら「おかえり」は挨拶であって要求ではないらしい。
同じ音でも、そこに込めた思いが違えば、かように食い違う。
まことに言葉とは厄介なものである。
さて、吾輩の住まいは窓辺に近い。
朝になれば光が差し、夕方になれば影が伸びる。
そのかわり、外の様子もよくわかる。
近所には吾輩と同じく、籠の内に暮らす鳥たちが幾羽かいる。
右隣の家の軒先には、やたらとよく喋る九官鳥。
左のベランダには、年若いインコが二羽。
道を挟んだ向かいの窓辺には、文鳥の夫婦。
人間どもは知らぬようだが、朝と夕に、われら鳥かごの者どもは、ちょっとした会合をもっている。
もっとも、人間から見れば、ただ鳴き交わしているだけに聞こえるだろう。
事実、表向きはそのとおりである。
声が飛び、返り、また飛ぶ。
短いものだ。
「オハヨウ」
「オハヨ」
「ハヨ」
こんなふうに、たいへん愛嬌のある音が行き交う。
通りすがりの人間などは、あらかわいい、鳥さんたち挨拶してるのねえ、などと立ち止まって喜ぶ。
だがあれを、ただの朝のあいさつと思うのは浅い。
右隣の九官鳥の「オハヨウ」は、たいてい自慢である。
今日も人間を三度笑わせたぞ、といった調子が声ににじむ。
左の若いインコどもの「オハヨ」は、半分ほど眠気でできている。
向かいの文鳥夫婦の短い囀りには、互いの所在の確認と、朝の空気の具合への感想が混じっている。
そして吾輩の「オハヨウ」ときたら、その日の空腹の程度と、窓の外の気配と、前夜に見た妙な夢の名残とで、毎朝少しずつ違う。
同じ音を出していても、心の中身はまるで一つではない。
ある朝、会合の最中に、九官鳥が妙に得意げな声で言った。
「キョウモゲンキ」
いかにも人間受けしそうな、よく通る調子である。
すると若いインコが、すぐさまそれを真似た。
「ゲンキ」
「ゲンキ」
九官鳥は鼻高々で、さらに続けた。
「カシコイネ」
これは昨今、あの家でよく浴びせられている褒め言葉らしい。
なるほど、響きは悪くない。
しかし吾輩は少し首を傾げた。
元気であることと、賢いと呼ばれることが、あの者にとってどれほど大事なのかはわからぬが、少なくともその朝の声色には、機嫌の良さよりも、むしろ競い合うような尖りがあったからである。
そこで吾輩は、本来の短い声をひとつ返した。
人間にはただの鳴き声にしか聞こえぬだろう。
だが鳥にはわかる。
それは、浮かれるな、朝から肩に力が入りすぎているぞ、という程度の意味であった。
九官鳥は一瞬黙り、それから人間の言葉ではなく、乾いた地声で応じた。
つまり、お前に言われたくはない、である。
たいへん率直でよろしい。
こういう時、人間の言葉はかえって役に立たぬ。
借りものの音では、こちらの機微がこぼれてしまう。
腹の立ち具合も、呆れ具合も、照れ隠しも、微妙なところは本来の声のほうがずっと早い。
若いインコどもは、われらのやり取りを半分も理解せぬまま、それでも楽しそうに羽を震わせていた。
若さとはそういうものである。
意味が曖昧でも、場の勢いに乗る。
それもまた立派な生き方だろう。
向かいの文鳥夫婦は、こちらを一瞥したのち、実に要領よく会話を切り上げた。
夫婦というものは、無用な口論に首を突っ込まぬ知恵を、長く一緒に暮らすうち身につけるらしい。
やがて人間どもが窓を開け、カーテンを引き、朝の支度を始める。
すると会合は自然と散る。
われらはそれぞれ、また人間の前の顔へ戻る。
九官鳥は愛想よく「オハヨウ」を繰り返し、若いインコは鈴のような声を弾ませ、文鳥夫婦は控えめに寄り添う。
吾輩もまた、いかにも人間が喜びそうな調子で「オハヨ」と言ってやる。
すると案の定、人間どもは頬を緩める。
まるでこちらの心を理解したような顔をして。
だが、理解というものは、そんなにたやすくはない。
人間どもは吾輩が人の言葉を口にすると、とかく感心したがる。
しゃべった、覚えた、賢い、と。
しかし吾輩がほんとうに何を考え、何を欲し、何に腹を立て、何にさびしさを覚えるかについては、ずいぶんとのんきである。
いや、責めるつもりはない。
人間は人間で、あれこれ忙しい。
大きな体で外へ出て、帰ってきて、疲れた顔で椅子に沈み、それでもこちらに向かって笑おうとする。
たいしたものだとは思う。
ただ、その笑顔の横で吾輩が「オカエリ」と言った時、もしほんの少しだけ、その続きにあるものまで想像してくれたなら、話はもっと早いのである。
ある夕方のことだ。
人間の一人が、いつもより遅く帰ってきた。
足音が重い。
鞄を置く音も重い。
「ただいま」の響きが、いつもより低く、少し短い。
吾輩は反射的に「おかえり」と返しかけて、やめた。
代わりに吾輩は、籠の中を静かに一歩だけ移動し、相手の顔の高さに近い止まり木へ移った。
羽をふくらませるでもなく、騒ぐでもなく、ただじっと相手を見た。
すると人間は、ふっとこちらを見て、少しだけ笑った。
疲れている時の笑いである。
いつものような、賢いねえ、という軽い調子ではない。
もっと鈍く、もっと本音に近い笑いだった。
その時、吾輩は、借りものの言葉を使わずとも伝わるものがあるのを知った。
あるいは、借りものの言葉では届かぬものがあると言うべきか。
だから吾輩は、短く一声、本来の柔らかな声を鳴らした。
人間はしばらく黙ってから、ありがとね、と言った。
その「ありがとね」は、いつものように吾輩へ芸を求める声ではなかった。
少なくとも吾輩には、そう聞こえた。
むろん、吾輩が人間の言葉を完全にわかっているわけではない。
だが、声の重さや、目の向け方や、間の置き方くらいはわかる。
それで十分なこともある。
結局のところ、言葉とは不完全なものだ。
人間の言葉であれ、鳥の言葉であれ、音はしばしば心を取りこぼす。
それでも、生きものは諦めずに声を出す。
足りぬなら身ぶりを足す。
それでも足りぬなら、近くへ寄る。
寄れぬなら待つ。
そうやって、少しでもましに伝えようとする。
吾輩らが毎日しているのは、つまるところそういうことである。
ゆえに、吾輩にも思いがある。
「オハヨウ」と言う時の思い。
「オカエリ」と返す時の思い。
餌皿を覗き込む時の思い。
隣の九官鳥にあきれる時の思い。
夕暮れに少しさびしくなる時の思い。
それらは人間の耳には、同じような声に聞こえるかもしれぬ。
だが、同じではない。
決して同じではないのである。
もし人間どもが、吾輩らの人真似ばかりをありがたがるのをやめ、ひと息ぶんだけ長くこちらを見てくれるなら、きっと聞こえてくるものがあるだろう。
言葉になる前の気配。
借りものの音の奥にある、ほんとうの調子。
そういうものだ。
もっとも、そこまで求めるのは少々酷かもしれぬ。
だから吾輩は今日も、ほどほどに人間へ付き合ってやる。
朝になれば「オハヨウ」と言い、帰ってくれば「オカエリ」と返し、気が向けば「カワイイ」とまで言ってやる。
そのたび人間どもは喜ぶ。
結構なことである。
だが、どうか忘れないでもらいたい。
吾輩はただの音ではない。
真似だけの嘴でもない。
吾輩にも思いがある。
そしてほんとうに大事なことは、いつだって、吾輩自身の声と動作の中にあるのである。




