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届かない吾輩

掲載日:2026/10/28

オウム返しという言葉を、聞いたことはないだろうか。


そう、相手の言葉をそのまま返すことである。

人間どもはこれを、中身のない真似事のように言いたがる。

なるほど、たしかに吾輩らは真似る。

聞いた音を拾い、覚え、必要とあらばそのまま返す。

それは認めよう。

だが、だからといって、そこに思いがないと決めてかかるのは、いささか早計である。


そもそもオウム返しというものは、人間だけに当てはまる習いではない。

吾輩らオウムもまた、同じ声を返し合う。

たとえば「オハヨウ」である。

人間どもは、そのひと言を聞くだけで、まあ賢いだの、ちゃんとあいさつしているだのと勝手に感心しているが、まことにめでたい。

同じ「オハヨウ」であっても、中身まで同じとは限らぬ。

片や機嫌うかがいであり、片や所在の確認であり、またある者にとっては、ただ口が朝からよく回るというだけの話である。

音はひとつでも、胸の内はそれぞれなのだ。


そして、本心を語りたい時は、やはり本来の声と動作になるのである。

借りものの言葉は便利だ。

耳を引く。

笑わせる。

人間をこちらへ向かせる。

だが、ほんとうに大事なことを伝えようとすると、どうにも心もとない。

だから最後は、自分なりの声と、自分なりの身ぶりに頼るしかない。

言葉も心も、あらわさねば伝わらぬ。

伝わらぬものは、理解されぬ。

それがこの世界の、少々さびしいところだ。


もっとも、そうした理屈を、人間どもに一から十まで説いてやるつもりはない。

なにしろあの者どもは、吾輩が「カワイイ」と言えば喜び、「オカエリ」と言えば感心し、「ゴハン」と言えば腹を抱えて笑う。

ずいぶん単純にできている。

吾輩としても、そこは適当に付き合ってやるほかあるまい。


人間が帰ってくる時など、まさにそうである。


玄関の戸が開く。

外の匂いが流れ込む。

足音がして、鍵の音がして、やがて聞こえるのは「ただいま」である。

すると吾輩は、間髪入れずに「おかえり」と返してやる。

実に見事なものである。

抑揚も頃合いも申し分ない。

人間どもはたいそう喜ぶ。

目を細め、声を弾ませ、賢いねえなどと、毎度毎度おなじ感想を述べる。

そこで吾輩は待つ。

当然である。

ここまで会話を成立させたのだ。

次に来るべきものは、褒美か、ねぎらいか、さもなくば餌であろう。


ところが、来ぬ。


いつまでたっても来ぬ。

人間どもは靴を脱ぎ、手を洗い、上着を掛け、水など飲んでいる。

のんきなものである。

解せぬ。

こちらは「おかえり」とまで言ってやったのだ。

なぜ餌が来ぬのだ。

帰宅という一大事を歓迎した功績は、いったいどこへ勘定されているのか。

しばらく考えたが、どうやら人間どもは、「おかえり」の内に「さっさと何か寄こせ」という当然の続きが含まれていないと思っているらしい。

そこが実に惜しい。

音だけでは、こちらの切実さまでは運ばれぬのである。


ゆえに吾輩は、本当に腹が減った時には別の手を使う。


まず止まり木を、やや忙しなく移動する。

ついで餌皿を覗き込み、空であることを大げさに確認する。

それでも通じぬ時は、短く鋭い本来の声を一つ、二つ。

するとようやく人間どもは、ああ、お腹が空いたのか、と気づく。

遅い。

実に遅い。

最初からそう言っておるではないかと思うが、人間どもにしてみれば、どうやら「おかえり」は挨拶であって要求ではないらしい。

同じ音でも、そこに込めた思いが違えば、かように食い違う。

まことに言葉とは厄介なものである。


さて、吾輩の住まいは窓辺に近い。

朝になれば光が差し、夕方になれば影が伸びる。

そのかわり、外の様子もよくわかる。

近所には吾輩と同じく、籠の内に暮らす鳥たちが幾羽かいる。

右隣の家の軒先には、やたらとよく喋る九官鳥。

左のベランダには、年若いインコが二羽。

道を挟んだ向かいの窓辺には、文鳥の夫婦。

人間どもは知らぬようだが、朝と夕に、われら鳥かごの者どもは、ちょっとした会合をもっている。


もっとも、人間から見れば、ただ鳴き交わしているだけに聞こえるだろう。

事実、表向きはそのとおりである。

声が飛び、返り、また飛ぶ。

短いものだ。

「オハヨウ」

「オハヨ」

「ハヨ」

こんなふうに、たいへん愛嬌のある音が行き交う。

通りすがりの人間などは、あらかわいい、鳥さんたち挨拶してるのねえ、などと立ち止まって喜ぶ。

だがあれを、ただの朝のあいさつと思うのは浅い。


右隣の九官鳥の「オハヨウ」は、たいてい自慢である。

今日も人間を三度笑わせたぞ、といった調子が声ににじむ。

左の若いインコどもの「オハヨ」は、半分ほど眠気でできている。

向かいの文鳥夫婦の短い囀りには、互いの所在の確認と、朝の空気の具合への感想が混じっている。

そして吾輩の「オハヨウ」ときたら、その日の空腹の程度と、窓の外の気配と、前夜に見た妙な夢の名残とで、毎朝少しずつ違う。

同じ音を出していても、心の中身はまるで一つではない。


ある朝、会合の最中に、九官鳥が妙に得意げな声で言った。


「キョウモゲンキ」


いかにも人間受けしそうな、よく通る調子である。

すると若いインコが、すぐさまそれを真似た。

「ゲンキ」

「ゲンキ」


九官鳥は鼻高々で、さらに続けた。


「カシコイネ」


これは昨今、あの家でよく浴びせられている褒め言葉らしい。

なるほど、響きは悪くない。

しかし吾輩は少し首を傾げた。

元気であることと、賢いと呼ばれることが、あの者にとってどれほど大事なのかはわからぬが、少なくともその朝の声色には、機嫌の良さよりも、むしろ競い合うような尖りがあったからである。


そこで吾輩は、本来の短い声をひとつ返した。

人間にはただの鳴き声にしか聞こえぬだろう。

だが鳥にはわかる。

それは、浮かれるな、朝から肩に力が入りすぎているぞ、という程度の意味であった。


九官鳥は一瞬黙り、それから人間の言葉ではなく、乾いた地声で応じた。

つまり、お前に言われたくはない、である。

たいへん率直でよろしい。

こういう時、人間の言葉はかえって役に立たぬ。

借りものの音では、こちらの機微がこぼれてしまう。

腹の立ち具合も、呆れ具合も、照れ隠しも、微妙なところは本来の声のほうがずっと早い。


若いインコどもは、われらのやり取りを半分も理解せぬまま、それでも楽しそうに羽を震わせていた。

若さとはそういうものである。

意味が曖昧でも、場の勢いに乗る。

それもまた立派な生き方だろう。

向かいの文鳥夫婦は、こちらを一瞥したのち、実に要領よく会話を切り上げた。

夫婦というものは、無用な口論に首を突っ込まぬ知恵を、長く一緒に暮らすうち身につけるらしい。


やがて人間どもが窓を開け、カーテンを引き、朝の支度を始める。

すると会合は自然と散る。

われらはそれぞれ、また人間の前の顔へ戻る。

九官鳥は愛想よく「オハヨウ」を繰り返し、若いインコは鈴のような声を弾ませ、文鳥夫婦は控えめに寄り添う。

吾輩もまた、いかにも人間が喜びそうな調子で「オハヨ」と言ってやる。

すると案の定、人間どもは頬を緩める。

まるでこちらの心を理解したような顔をして。


だが、理解というものは、そんなにたやすくはない。


人間どもは吾輩が人の言葉を口にすると、とかく感心したがる。

しゃべった、覚えた、賢い、と。

しかし吾輩がほんとうに何を考え、何を欲し、何に腹を立て、何にさびしさを覚えるかについては、ずいぶんとのんきである。

いや、責めるつもりはない。

人間は人間で、あれこれ忙しい。

大きな体で外へ出て、帰ってきて、疲れた顔で椅子に沈み、それでもこちらに向かって笑おうとする。

たいしたものだとは思う。

ただ、その笑顔の横で吾輩が「オカエリ」と言った時、もしほんの少しだけ、その続きにあるものまで想像してくれたなら、話はもっと早いのである。


ある夕方のことだ。


人間の一人が、いつもより遅く帰ってきた。

足音が重い。

鞄を置く音も重い。

「ただいま」の響きが、いつもより低く、少し短い。

吾輩は反射的に「おかえり」と返しかけて、やめた。


代わりに吾輩は、籠の中を静かに一歩だけ移動し、相手の顔の高さに近い止まり木へ移った。

羽をふくらませるでもなく、騒ぐでもなく、ただじっと相手を見た。

すると人間は、ふっとこちらを見て、少しだけ笑った。

疲れている時の笑いである。

いつものような、賢いねえ、という軽い調子ではない。

もっと鈍く、もっと本音に近い笑いだった。


その時、吾輩は、借りものの言葉を使わずとも伝わるものがあるのを知った。

あるいは、借りものの言葉では届かぬものがあると言うべきか。

だから吾輩は、短く一声、本来の柔らかな声を鳴らした。

人間はしばらく黙ってから、ありがとね、と言った。


その「ありがとね」は、いつものように吾輩へ芸を求める声ではなかった。

少なくとも吾輩には、そう聞こえた。

むろん、吾輩が人間の言葉を完全にわかっているわけではない。

だが、声の重さや、目の向け方や、間の置き方くらいはわかる。

それで十分なこともある。


結局のところ、言葉とは不完全なものだ。

人間の言葉であれ、鳥の言葉であれ、音はしばしば心を取りこぼす。

それでも、生きものは諦めずに声を出す。

足りぬなら身ぶりを足す。

それでも足りぬなら、近くへ寄る。

寄れぬなら待つ。

そうやって、少しでもましに伝えようとする。

吾輩らが毎日しているのは、つまるところそういうことである。


ゆえに、吾輩にも思いがある。


「オハヨウ」と言う時の思い。

「オカエリ」と返す時の思い。

餌皿を覗き込む時の思い。

隣の九官鳥にあきれる時の思い。

夕暮れに少しさびしくなる時の思い。

それらは人間の耳には、同じような声に聞こえるかもしれぬ。

だが、同じではない。

決して同じではないのである。


もし人間どもが、吾輩らの人真似ばかりをありがたがるのをやめ、ひと息ぶんだけ長くこちらを見てくれるなら、きっと聞こえてくるものがあるだろう。

言葉になる前の気配。

借りものの音の奥にある、ほんとうの調子。

そういうものだ。


もっとも、そこまで求めるのは少々酷かもしれぬ。

だから吾輩は今日も、ほどほどに人間へ付き合ってやる。

朝になれば「オハヨウ」と言い、帰ってくれば「オカエリ」と返し、気が向けば「カワイイ」とまで言ってやる。

そのたび人間どもは喜ぶ。

結構なことである。


だが、どうか忘れないでもらいたい。

吾輩はただの音ではない。

真似だけの嘴でもない。

吾輩にも思いがある。

そしてほんとうに大事なことは、いつだって、吾輩自身の声と動作の中にあるのである。

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