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その後、マルゴが先物取引の怖さについて話し、レイル先生が教会の教えを説いて、集団療法は終わった。
だが、そんな話は何一つとして、俺の頭には入ってこなかった。
俺は居心地の悪さを抱えたまま、裏の洗い場へと案内された。冷たい水をしこたま浴びて、先生からまともな服を与えられた。
再びホールに戻ってくると、ここは食堂としても使われているらしく、さっきは脇によけられていた四角いテーブルが中央に戻されていた。
夕食の準備をするためにレイル先生が厨房へ向かうと、取り残された俺はそのテーブルの隅に座り、ただぼんやりするしかなかった。俺の左隣にパイロンが座り、向かい側にはマルゴが座って、クレープはホールから出たり入ったりとうろちょろしていた。
とにかく、気まずかった。
切り出せる話題などあるはずもなく、小一時間ほどそうやって無言で座っていただろうか。
「ステイ! まだステイだよクレープ!」
そう言うマルゴの声に顔を上げると、テーブルに前足をかけてパンを狙っていたクレープが、怒られ椅子に戻るところだった。
「あ、キミもまだステイしててね」
彼女は俺にもそう付け加えるが、その声色は冗談というより本気寄りで、ますます辛くなった俺は顔を伏せた。パイロンはひたすら本を読み続け一言も発さず、クレープは注意されると俺の右隣にちょこんと大人しく座っていた。
このなかで、俺が一番の病人だと思った。
戦場じゃ、すべてがシンプルだった。
戦いは勝つか負けるか、生きるか死ぬかだから、弱い奴らのことなんていちいち考えなくてよかった。強くなること、敵を倒すことだけでよかった。
なのに今の俺はどうだ。
女や犬にまで手を上げたのはどう考えてもおかしかった。イカれているとしか思えなかった。俺は普段からあんな感じだったのか、わからない。わからないし、これからどうしたらいいのかもわからなかった。
もやもやする。うずうずする。腹の手術の傷がジンジンする。
垢だらけの体を拭い、きれいな服と靴に着替えても、惨めさは変わらない。戦場にいない俺はこんなにもクソで、戦えないと何もできなくて、病気で、狂ってて、剣を振り回したい。バカみたいに暴れてすっきりしたい……って、ダメだ、変なこと考えるな!
「よし!」
「…………」
「よし!」
「…………」
「ねぇ、よし、だよ」
「え?」
「食べてよし!」
「あぁ」
いつの間にか、俺の前にスープが置かれていた。それはザク切りの野菜がたくさん入った、ベージュ色の一般的なスープだった。湯気とともに鼻をくすぐるその素朴な匂いは、俺をなんだか懐かしい気分にさせた。
俺の隣でクレープがものすごい勢いでスープにがっついていて、俺もパンへと手を伸ばすと、マルゴが言った。
「まだダメ」
「え?」
「食前の祈り、は?」
「へ?」
パンを持ったまままごつく俺を見て、マルゴの隣に座ったレイル先生がクスリと笑う。
その瞬間、頭の中で聞き覚えのある声が聞こえてきた。「戦場じゃマナーなんて関係ない」
その声はどうしようもないしゃがれ声で、面食らった俺はブンブンと頭を振る。
けれど、声は止まらない。「スプーンだって人は殺せる」
やめろ!
急速に血の気が引いていく。視界が暗くなり、全身に異様な圧がかかる。それは椅子が消え、床が抜け、地面の下へと落下していくような感覚で、胸の奥さらに奥、深い闇の中へと俺は落ちていく。見渡す限りは真っ暗で、手をかけられる場所なんてどこにもない。いつまでも底にたどり着くことはない。
やめろーーーーっっ!!
と、再び絶叫したところで、 果てしない闇に、稲妻のような赤いヒビが入った。
え?
思わず見ると、薄汚れた赤い髪がヒビのスキマから、ゆっくりと這い出してくるところだった。ボロボロのマントが虚空にひるがえり、彼の体に刻まれた無数の傷に、俺は嫌でもその名前を思い出す。
アスタチン――俺の宿敵。
彼は漆黒の闇を背景に、大剣を高く振りかざすと、こう言った。「さぁ、この前の続きをやろう」
俺は――
そこで、我に返った。
クレープがじっとこちらを見つめていた。
正確にいうと、彼は前のめりになって俺のスープを狙っていた。クレープの皿はすでに空となり、アーモンド型のタレ目が卑しく輝いていた。パンを持ったまま固まる俺からスープを奪えると思ったのだろう。
数瞬後、クレープが飛びかかってくる未来が見えた。
これまで戦場で培ってきた俺の勘は、続いてその平たい頭に拳を叩きつけている俺の姿をも、まぶたの裏に見せてきた。そのあと、どうなるのかはわからない。
頭の中でアスタチンが言う。「殺っちまえ」
頭の中でレイル先生が言う。「破壊衝動は二度とコントロールできない」
そして、なすすべなく時は流れ、予想通りクレープの背中が大きくしなった。
そのクリーム色の毛並みが、後ろ脚の筋肉が激しく躍動し、俺は本能的にクレープの方を向く。右手の中でパンが潰れる。握りしめた拳を振り上げようと肩が上がる。
殴れ。潰せ。殺せ。
頭の中がそんな言葉で埋め尽くされる。
だけど、首輪の裏側にあの熱を感じた。
俺はとっさに身を引きながら、左手でスープ皿を突き出した。
「やるよ」
その上ずった声はあまりに甲高く、俺から発せられたものではないかのような感覚を覚えた直後、金属を打ち鳴らしたような音がした。
着地がずれたクレープが鼻からスープの皿に突っ込んだ。
「きゃっ!!」
テーブルの皆が悲鳴を上げる。俺はそのままバランスを崩し、椅子ごと後ろにひっくり返る。
皿の割れる音とともに、間髪入れず後頭部に激痛が走った。
けれども俺は、受け身を取りさえしなかった。目を閉じすらせず、パンを持つ右手を硬直させ天井に向かって掲げていた。
ただ俺は、真新しいシャツにできたスープの染みをながめていた。クリアになったはずの視界に星が飛ぶのを他人事のように感じながら、俺はそれを、ただぼんやりと見下ろしていた。
最初それは血だと思った。
首筋から左肩にかけて、熱を帯びた飛沫が飛び散っていた。それは俺が強く欲しつつも、決して追体験してはいけない感覚。だけど無様なその染みはクレープと同じベージュ色で、赤くはなかった。
……なんとかやり過ごせた、のか?
チャプチャプ、と近くで水音がする。すぐそばでクレープが床に散ったスープを舐めている。皆が文句を言う声が遠くに聞こえる。その内容はよくわからないが、そのトーンはさっきガウンをはだけたときよりかは穏やかだった。
俺は、ゆっくり右手を下ろした。
ギリギリだったが、殴らずに済んだ。
そんな当たり前の事実に、ようやくほっとして、こわばる拳を緩めると、拳の中でパンはすっかりぺしゃんこになっていた。
しかし構わず、俺はそれを口の中へとねじ込んだ。
「…………あぁ」
久々に食ったパンは最高に美味かった。




