7-2
そうして、俺は強制退院になった。
軽症病棟は黒く焦げ、梁が剥き出しになり、潮風に灰が舞っている。まだ燻る匂いが鼻の奥に残り、焦げた木材の甘苦い煙が、喉をざらつかせた。
そんな光景を横目に、俺は誰にも挨拶することなく、院長とともに波止場に着いた。ふたりとも服はボロボロで、重症病棟からここまで一言も話さなかった。
いつも泊まっている舟の横に、アスタチンが乗ってきたと思われる小さな舟が一艘泊まっていた。院長が顎で促す。これに乗れというのだろう。
強制退院――地図もコンパスも持たず、絶海の孤島から出るということは、運よく陸に辿り着くか、どこにも辿り着けないかのどちらかだ。しかし、俺の気持ちは、数時間前、自ら命を絶とうとしたときよりずっと晴れやかだった。
覚悟を決めて、俺は千切れかけの紐を腰に巻き直すと、舟に乗り込んだ。オールを手にしようとしたところで、院長が口を開いた。
「まずは島を回り込め」
「え?」
「島の真裏に二つ並んだ岩がある。その間に太陽を捉え、まっすぐ進め。日が沈む頃には潮が変わる。上手く乗れれば、二日もあれば陸が見える。外せば沖だ」
その言葉に戸惑う俺に、院長が付け加える。
「つまらん死に方はするなよ」
「…………」
「生きてさえいれば、お前はまたここに戻ってくる。次こそは俺を楽しませてくれ」
「……院長」
「冗談だ。二度と戻ってくるなよ」
「……ありがとう、ございます」
「あとは……」
そう言って、院長は俺に汚れた剣を差し出した。
「ほら、忘れ物だ」
両手で受け取ると、俺が長年愛用してきたはずの剣は、嘘のように重く感じた。何年か前にアスタチンから奪い取ったその魔剣は、鞘に戻されていたが、金細工は剥がれ、黒ずんだ柄には血とも潮ともつかない粘りが残っていた。
俺は海へ向き直った。
海は穏やかで、底は浅く透き通って見えた。そのまま剣を高く持ち上げ、投げ捨てようとした。
――ここで捨てなければ、また狂う。
しかし、ふと足元の水面に映った自分の顔が目に入った。
「どうした? 捨てないのか?」
「う……」
波に揺れる俺の顔は不安でいっぱいで、俺は両手を掲げたまま動けなくなった。
剣は俺の唯一の過去だった。
何もない俺の人生のすべてがこの剣に詰まっていた。ここでこれを捨てれば、きっと区切りはつく。だが、それは本当に「忘れる」ことじゃないのか。
まだどこかに残っている狂気が、柄を持つ右手を震えさせる。いっそこの剣でみんなの名前を刻んでしまえば、忘れずに済むのだろうか。だけど、マルゴの綴りすらもう曖昧だ。こんな調子では、アスタチンの名すら忘れてしまう。
アスタチンはどうだったんだろう?
わからない。
俺は所詮、まがいものだった。少なくともあいつのほうが、純粋に強さを追い求めていた。
ふと、あいつの声が蘇る。「なんのために生きてるんだ?」
俺が両手を掲げたまま動けずにいると、院長が言った。
「どうした? 今ならまだ戦えるぞ?」
俺はゆっくりと剣を下ろし、口を開いた。
「いや、戦いません。さっきのが生涯最後です」
「そう言えるうちはいいんだけどな」
「陸に戻ったら、教会にでも入りますよ」
「……好きにしろ」
そうして、俺は剣を下ろした。船首側にそれを置くと、舟底がぎしりと鳴った。座りなおして脚を伸ばし、オールを手に持ったところで、院長がしっしっとジェスチャーをする。
「ほら行け。お前がいると、建物が潰れてきりがない」
そう吐き捨てると、院長は背を向け、波止場を後にした。
俺はオールを漕ぎ始めた。
海面に刺さったオールは剣よりも、もっとずっと重かった。
潮の流れに乗って、舟が加速していく。ゆっくりと遠ざかっていく院長の背中を見つめながら、ふと気づいて、俺は声を張り上げた。
「院長! 最後に一つだけいいですか?」
「なんだ?」
「あなたの名前を聞くのを忘れていました」
院長はしばらく答えなかった。潮風が白衣をはためかせる。それでも彼は振り返らず、低い声でつぶやいた。
「……ブロミン・リセック」
それから、こちらを見ずに微かに肩をすくめた。
「……戦闘狂だ」
その言葉を最後に、彼の姿は瓦礫の影に見えなくなった。
俺は言われた通り、島の影へ舟を向けた。
すぐに全身汗だくになって、肩甲骨のあたりが痛くなってきた。血と汗にまみれた服が放つ異臭が鼻をついた。それでも春の柔らかな日差しは温かく、まだ切られたばかりの短い髪が風にたなびくのが気持ちよかった。
島の真裏にある双子の岩は、思っていたよりも低く、ただ並んでいるだけだった。拍子抜けするほど平凡なその岩の間で、俺はしばらくオールに額を押しつけ、荒い息を整えた。
鼻から大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐く。
かつて教えてもらったその呼吸法から、ふいに思い出した。俺は、レイル先生とキスする約束をしていたんだ。
そして、レイル先生より俺のほうがよっぽど嘘つきだな、とも思った。
あの島には、嘘ばかり置いてきた気がした。
振り返れば何かが戻ってきそうで、俺は首を動かさず、オールをぐっと握りしめた。腰に巻きつけたボロボロの紐が、一漕ぎごとにゆらゆらと揺れていた。
もうみんなと会うことはないだろう。たぶん、そうであって欲しい。
ザブザブと水流に揉まれながら、岩のあいだを抜ける。
何も起こらない。
ただ、舟が前へ進んだだけだ。
目の前には、どこまでも青い海が広がっていた。
それでも俺は、ひたすらに漕ぎ続けた。




