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7-1

 俺はまだ、死にきれていなかった。


 アスタチンが崖の下に消えると、あとはもう爆発に次ぐ爆発だった。


真紅の祝福(アポカリプス)は必要ない! 暴走する我が血脈よ、この魂ごと凍りつけ!」


 パイロンが壁に開いた大穴の前で頭を垂れてへたり込んでいる。彼が穴の外へと火炎魔法を吐き出すたび、小屋全体が揺れた。火球が炸裂し、建物が壊れつつある感覚だけが、朦朧とした意識の中に伝わった。


「ねぇ先生。タンタルくんを助けてよ」


 そのすぐ近くでは、へたり込むマルゴがレイル先生に泣きついている。レイル先生も肩を落とし床に座り込んでいる。その白衣は煤で黒ずみ、砕けたメガネが血の滲むタイルの上に転がっていた。


 再びの爆発を挟み、レイル先生がかすれた声を上げる。


「ごめんなさい……」

 

 黒髪が石粉に真っ白になって、涙で金色の目が光っていた。


「ごめんなさい。私も患者なの。虚言癖の嘘依存症なの。医者じゃないの……」


 その言葉が妙に腑に落ちてしまうのが、悲しかった。重々しい雰囲気の中、何度も息を継ぎながら、彼女は続ける。


「免許なんて持ってないの。治療は全部――」


 そんな告白も新しい爆発にかき消される。


「炎の精よ、我が声に応じるな! 烈火よ踊るな! 頼む、頼む、頼むからっ!!」


 そうは言いながらも、パイロンの声は若干の笑いを含んでいて、炎の精はなんて意地悪なんだろう、と俺は思う。いつかレイル先生が言った「神は、理不尽だからこそ神なのです」という言葉が頭をかすめた。


 先生は嘘つきだけど、この言葉だけは真実だった。


 理不尽に抗うことなど絶対に不可能で、依存症は決して治らない。悪意の掌で踊らされ続ける俺たちにできることはただ、自分が信じられる少しでもマシな神にすがることだけ……


 ふいに、視界の端に小さな動きが映った。


 俺は面食らった。


 気づくと、なぜかマルゴが立ち上がっていた。


 スカートの裾から覗く裸足の足先が、血溜まりの中にぼやけて見えた。続いて、羽ばたくガーモの影が、倒れた俺の横をかすめていく。ピチャピチャと、血溜まりを踏みしめる音が聞こえたと思った瞬間、目の前に何か光るものが転がった気がした。それが、マルゴの左眼窩に埋め込まれていたアメジストだと理解するのに少し時間がかかった。


 彼女はゆっくりと歩みを進め、死にかけの俺を乗り越え、牢の外へ出た。俺の世界が一段と暗くなるなか、彼女はそのまま院長のもとへとかがみ込んだようだった。


 襟首を掴んで揺さぶる強い衣擦れの音ととともに、マルゴが火を吹く勢いでまくしたてる。


「ねぇ、なんとかしてよ! もしかしてアンタも医者じゃないの? アンタも嘘つきなの?」


 クレープが戸惑った声で鳴き、院長が弱々しく笑う。


「嘘つきはお前だろ。その脚と目。いったい何に、何を賭けた?」


「タンタルくんが破壊衝動に飲まれないほうに、ボクの命をだ」


「ははは、面白い。なぁ面白いよな、薬物中毒者(アディクト)?」


 院長はかすれた小声で、建物外で串刺しになっているジクロロメタンに話しかけた。しかし、返事はなかった。


「おい犬、行ってこい」


 クレープが駆け出し、外に出ていく。ほどなく、壁の裏から声にならない悶絶と衣擦れの音が聞こえたかと思ったら、数秒後、クレープは元気よく戻って来る。


「ははっ、やはり持っていたか」


 院長の笑い声とともに、ぽん、とコルク栓が抜ける音が響き、あたり一面に強烈なバラの花の香りが漂った。それは失われつつあった意識を再び現実へと呼び戻し、俺は嫌な気持ちになった。


 院長がゴクゴクと何かを飲む音がする。


 ぷはっ、と彼が息をつくと、周囲の空気がわずかに変わった気がした。


 さっきよりわずかにクリアになった視界の隅で、院長の動きがめきめきと力強さを取り戻すのが見えた。唇の色が戻り、呼吸の乱れが嘘のように落ち着いていく。完全に回復するまではほんの一瞬で、俺は息を呑んだ。


「これだけありゃあ、王都の重病人全員を救えるというのに」


 声にもいつもの気迫が生まれ、パイロンが発する爆発音が不穏に轟き続けるなか、院長はすっくと立ちあがる。白衣はあちこち破れ、血に汚れていたが、そんなことを感じさせぬ滑らかさだった。


 院長は続けて俺に近づくと、俺の肩に足を掛け、背中から剣を引き抜いた。それを投げ捨てると、しゃがみ込み、俺の髪をつかんで瓶を口に押し付けた。


「ほら飲めよ。エリクサーだ」


「……嫌だ」

 俺は答えた。

「俺は……戦闘狂だ。戦って、死ぬのなら、本望だ……」


「何を言っている? 自分を病気だと認めるやつは、医者として治療せねばならんだろう?」


「黙れ……都合のいいときだけ、医者を名乗るな……」


 俺は固く口を結び、エリクサーを拒絶する。


 構わず、院長は瓶を押し付ける。やはり脳を揺さぶるような、芳しいバラの香り。間違いなく俺は一度これを飲んだことがあって、だからこそ俺は飲みたくない。しかし、その瓶からこぼれるその透明の液体は、唇や、首に垂れるだけでも、俺の身体を冒していった。


 しばらくして、院長は諦め立ち上がると、呆然とたたずむ患者たちにこう言った。


「なら、お前らが飲むか?」


 パイロンの詠唱が止まる。


「最高級のエリクサーだ。お前らの苦痛を忘れさせてくれるぜ」


 誰も答えない。


「我慢するなよ。俺にはお前らのことがよくわかる。辛い現実(いま)から逃げたい、過去と向き合いたくない、未来を直視したくない、そうだろう?」


「黙れっ」


 忌まわしき魔薬のせいで、わずかに回復してしまった俺は這いずり、床に転がる剣を手に取った。


 想像よりも背の高いマルゴの姿、パイロンの震える肩……目に映るすべてが、俺を無理やりでも突き動かした。


 血まみれの手で柄を握り、震える足でなんとか立ち上がる。鼓動が剣に呼応するように高鳴る。全身が痛みと疲労に縛られている。


 それでも、この一撃だけは、自分の意志で振り抜く。


「たしかに、俺たちは……逃げることばかりだ……」


 少し喋るだけで息が上がる。生まれたての鹿のように、足がふらつく。腹に結ばれた紐が揺れる。


「そんなことは……わかってる」


 息がヒューヒュー鳴り、血反吐が出る。だが、俺は続ける。


「それでも……前を向く気持ちだけは、侮辱するな!」


 ひとり、逃げだしたまま、死にたくなかった。


 俺は院長に斬りかかった。しかし自分の血糊に滑り、踏ん張りがきかない。無言の院長が一歩退き、俺の剣は空を切る。その太刀筋は情けないほどヘロヘロで、衝撃波なんて生まれない。


 それでも、こいつだけはここで殺さねばならない、そう思った。みんなの誇りを狂ってでも守る。そんな言い訳が喉元までせり上がるが、俺は己を押し殺す。


 危うさは分かっている。それでも、剣を振り上げる。


 またしても空振り。


 院長に勝てそうな要素は何一つなかった。圧倒的な強敵のはずなのに、楽しくなかった。胸がまったく高鳴らなかった。


 だからこそ、俺は再び剣を振りかざす――これこそが、俺の戦いだ。


 次も空振り。


 慣れたはずの剣の重みに体がついてこず、もつれる足でたたらを踏むうち、そのまま前のめりに倒れ込む。


「ああっ……」


 血溜まりの中で、体が石のように動かなくなった。


 さっきから爆発が止まっていた。詠唱ももうまったく聞こえない。パイロンは魔力を使い果たしたのか、それとも必死に衝動を抑えているのか、わからない。聞こえてくるのは、ただ崖下の波の音だけだった。


 俺は闇の底に沈むような、全身を包む疲労感に取り込まれた。


 あぁ死ぬんだ、そう思った。


 剣を握る力すら失い、カラン、という音がする。


 俺は目を閉じた。もうすでに何も見えなくなっていた。


「ただの依存症者(アディクト)のくせに、医者みたいなことを言うな」


 天を思わせるほど高いところから、院長の声がする。


「そんなことを言うやつはレイル以外必要ない。強制退院だ」


 その直後、髪をつかまれ鼻の穴から喉へと、無理やりエリクサーを流し込まれる。当然むせるが、むせればむせるほど、それは身体に吸い込まれていった。


 その味にも覚えがあった。


 まろやかで気品のある甘さ。無限に飲み続けられそうなあの感覚に、身体がじわりと反応する。痛みはまだ残っているが、背骨のあたりからむず痒くも心地よい高ぶりが広がり、ずたずたになった体に血が巡り始めるのが感じられた。


 体が芯から熱を帯び、嘘みたいに活力が湧いてきて、俺は目を自然と見開いた。筋肉が力を取り戻すのを感じ、身体が動き出すのを待ちきれず、勢いよく跳ね起きた。


 右の拳を握り込むと、そのまま院長に殴りかかる。


 無精髭の目立つ顎に直撃し、重い手応えが返ってきた。


 そして俺は、そのつまらなさそうな無表情へと自動的に伸びた二発目を、ギリギリのところで壁に叩きつけた。


 回復したばかりの俺の拳は砕けたタイルでズタズタになった。崖から吹き上がる潮風がその傷口に染みる痛みは、腹を裂かれたのと同じくらい痛かった。


 これをもって、俺の戦闘は終了した。


 いや、この程度で終わりなどしないだろう。


 甘い疼きはまだ消えない。身体が渇きを訴え、血が渦巻くように心臓を打つ。理性が引き裂かれそうになる。辛うじて、逃げず向き合う覚悟だけを握りしめている。


 これは一生、治らない。


 ――それでもいい。


 俺は血まみれの拳を、ゆっくりと握り直した。

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