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6-4

 俺たちは重症病棟に立てこもった。


 入口の鉄扉を硬く閉ざし、鉄格子の内側に全員で集まって、俺たちは寄り添い合っていた。


 パイロンがうずくまり本を読みふけっていた。ガーモを抱えうなだれるマルゴの側で、クレープが縮こまり震えている。レイル先生は指が白くなるほど車椅子のハンドルを握りしめ、ジクロロメタンは壁に寄りかかり、緑の髪が顔を覆って表情はよく見えなかった。


 俺たちの近くには、汚れたベッドが数時間前と変わらず放置されていた。ついさっきまで俺はここにいたはずなのに、長らくここで過ごしてきたことが遠い過去のように感じられた。


 そのとき、爆音が建物を揺らした。


 分厚い鉄扉越しにもはっきりと聞こえるその轟音は地響きのように長く、窓やタイルを振動させる。それはマルゴやレイル先生が漏らす悲鳴じみた吐息の中で、数十秒かけてようやく引いていった。


 そして、静寂。


「……終わったのか?」


 俺たちはお互いに意見を求めるようなアイコンタクトを繰り返した。しかし状況に動きはなく、答えが出ないまま、いたずらに時間だけが過ぎていった。


 さらに十分ほど時間が経って、耐えきれなくなった俺は口を開いた。


「俺、見てくる」


 皆を中に残して、俺は鉄扉を押し開け、外へと一歩踏み出した。汗に濡れた体に激しい海風がまとわりつき、俺は凍りついた。


 建物から少し離れたところに、血塗れのアスタチンが立っていた。


 曇天の空を背景に、赤い髪が映えていた。ズボンもブーツも血まみれで、顔も血に濡れていた。両手には二本の剣。規格外の大剣と、かつて俺が彼から奪ったロングソード。 


 猛々しい風に、マントが翻る。胸から腹に深く傷が入っているのが見える。肩はわずかに上下し、呼吸が荒い。


「逃げるなよ」


 アスタチンはロングソードを放り投げ、そう言った。剣は唸りを上げながら放物線を描き、こちらに向かって飛んでくる。


 ザクッ、と剣が俺のすぐ手前の地面に突き刺さったところで、彼は続ける。


「抜けよ。あのときの続きをやろう」


 アスタチンの後方には、車椅子の轍、そして引きずられた大剣の跡に沿うように、血の足跡が続いている。なだらかな坂の下、軽症病棟の方からはうっすらと土煙が立ち上っていた。


 かつて風車が立っていた場所が、瓦礫の山になっているのが見えた――さっきの爆音は、あれか。


 あの瓦礫の山のどこかに、院長がいる。そう考えた瞬間、めまいがして、それ以上は考えられなかった。考えれば、今すぐ剣を握ってしまいそうだった。


 それでも助けられると思ったのか、俺の脇をすり抜け、アスタチンを避けるように、クレープが勢いよく坂を駆け下りていく。アスタチンはそれを一瞥しただけで、追おうともしない。


 クレープは曲がり角の死角に消えるまで、一度もこちらを振り返らなかった。そのことが、妙に胸に引っかかった。開きっぱなしの鉄扉の後ろから、レイル先生たちの視線を感じ、扉を閉めなかったことを後悔した。


「おい、早く剣を抜け」


「……嫌だ」


「なんでだよ? 舐めてんのか?」


 右頬の傷が歪み、アスタチンの顔が険しくなる。目尻が釣り上がり、血走った目がギラリと光る。彼が血に汚れた大剣を両手で構えると、土の上に赤黒い飛沫が散った。


「今度こそ殺す」


 彼は大剣をまっすぐ中段に構え、俺と対峙する。どすり、どすり、と剣の重さを感じさせる力強い歩みで、一歩ずつこちらに歩いてくる。


 そのスピードは緩やかで、歩くたびにマントの隙間から血が滴り、濡れた地面に暗い染みを広げていく。アスタチンが院長から受けたダメージも相当なようだった。よく見ると、彼の大剣にもところどころに欠けがあり、先端部分にはわずかなヒビが入っている。


 ひょっとすると、今の俺でも互角にやり合えるかもしれない。足元のわずかな揺れ、剣先のブレ具合、そんなことを計算している自分が、嫌だった。


 俺とアスタチンとの距離はあと二十歩、十九歩。もうあと数歩で間合いに入る。


 どうする?


 院長がやられた今、こいつを止められるのは俺だけだ。このまま野放しにはしておけない。


 やるしかないのか?


 だけど、剣を取ったら、俺はまた戻れなくなる。


 首輪を破壊し、ジクロロメタンを殺した俺に。


 視線が剣とアスタチンの間を揺れる。


 そのときだった。


「お前の相手は私だ」


 ジクロロメタンが前に出た。


 彼女は病棟の外、俺の前へと数歩躍り出ると、落ち着いた声でつぶやき始めた。


「青より蒼き水の輝きよ、大気に満――」


「黙れ」


 次の瞬間、地面を蹴る音が聞こえた。

 

 風が裂け、閃光のような一撃。


 ジクロロメタンの首が宙を舞い、血飛沫が俺の頬にかかる。


 病棟の中から悲鳴が上がった。ジクロロメタンの首が崖下へと転がり落ちていき、胴体が崩れ落ちる音が聞こえたところで、アスタチンが俺に剣先を突きつけた。


「戦わないのは、こいつらのせいか?」


 分厚い剣が俺を、そして俺の後ろの他の患者たちを指している。その先端から、新鮮な血の雫がしたたり落ちる。生々しい鉄の臭いに圧倒され、言葉が出ない。俺は、答えることができない。


 しびれを切らして、アスタチンが剣を振りかぶった直後、雷鳴が響き渡った。


 間髪入れず、アスタチンの頭上だけ空気が歪んだ。次の瞬間、雲を裂いたような豪雨が一点に叩きつけられる。


 叩き落とされた水は地面をえぐり、跳ね返りながら渦を巻いた。その勢いは激しく、剣が振り下ろされるより前に、大人二人分ほどの太さの水柱を作り出す。俺はとっさに後ずさる。足元の土が削られ、濡れた泥が靴底を滑らせる。水柱は瞬く間にアスタチンの全身を包み込み、重症病棟に影を落とすほどにそびえ立った。


「——お前の相手は私だと言っただろう」


 と、首を失ったはずのジクロロメタンの声がして、アスタチンの体が水柱の中で浮き上がった。髪やマントが漂い、全身の傷口から血が溶け出し拡散していく。水の檻の中で、水柱はうねりながら何度も圧を重ね、骨が軋む鈍い音が続く。黒く濁った濁流の裏で、アスタチンの目がぎらりと光った。


 その視線の先に、首を再生させたジクロロメタンが立っていた。生き返った彼女は、まだ髪の生え揃わぬ頭を撫でつけ、言い訳がましくつぶやいた。


「この程度だとは情けない」


 しかし直後、水の檻の中心が、内側から膨らんだ。


 アスタチンが強力な圧を物ともせず剣を振りかぶっていた。ゴボゴボという音の隙間から獣じみた雄叫びが轟いたかと思うと、大剣の圧倒的な重量が、水流のねじれを強引に押し割ってくる。


 剣先が柱を切り裂くと、圧縮されていた水が勢いよく弾け、渦を巻きながら四方に散った。惑う隙すら与えず、大剣とともにアスタチンの上半身が水柱を突き破る。彼はその勢いのままジクロロメタンの首元を剣で貫き、力任せに地面へと押し倒した。


 内側から押し割られた水柱は、バランスを失い形を保てなくなった。切られたところからねじれ、崩れていく。激しい水流が四方に跳ねる。足元の泥を蹴り散らしながら俺をずぶ濡れにし、開けっ放しの扉から重症病棟の中まで浸していく。


 アスタチンも大剣をつかんだまま、ようやく水の拘束から解放された。雨もまた糸が切れたように降り止んだ。しかし変わらぬ曇天の下、彼は咳き込むように声を荒げた。


「だから黙れっつってんだよっ!!」


 彼は即座に体勢を立て直すと、ジクロロメタンに足をかけた。そのまま大剣をぐいぐいと肉の奥、下の地面へめり込ませる。ジクロロメタンが血溜まりを作り、暴れるが、刃は止まらない。大剣は濡れた土を割り、あっという間に半ば近くまで埋まった。彼女の体は巨大な杭に打ち付けられた標本のように、地面に固定されてしまう。


 声にならない叫びを上げて、ジクロロメタンは必死に剣を引き抜こうとする。だが、どうやっても剣の柄までは手が届かない。刃を避け、分厚い剣の腹を両手で挟みこみ引き抜こうにも、あの小さな体ではどうしようもなかった。


 彼女は死ねない。


 皮膚や肉は破壊されたそばから再生する。そんな肉の再生圧でも、さすがにあの剣の重量には叶わない。さらには首の根本を貫き止められているがゆえ、詠唱はおろか、呼吸すらままならない。剣が抜けない限り、この状態は終わらない。


 喉がひりつく。膝が震え、足が動かない。ジクロロメタンが泥を蹴り悶える音だけが、俺の鼓膜に虚しく響く。先の水流で鉄扉は完全に開かれ、後ろからレイル先生たちの刺すような視線が感じられた。


「これで、邪魔者はいなくなった」


 大剣に貫かれたまま悶え続けるジクロロメタンを打ち捨て、アスタチンは俺の方を向いた。赤髪が額に張り付き、ずぶ濡れのマントもべっとりと肌にまとわりついている。息を荒げて、彼は言う。


「ほら拾えよ」


 先ほど地面に突き刺さっていた魔剣が、水流に弾かれて地面から抜け、俺のすぐ足元に転がっていた。


 剣を拾えば、助けられるかもしれない。


 そう考えた瞬間、頭の芯がじんと痺れた。


 助けたいのか。戦いたいだけなのか。


 わからないまま、俺は動けない。


「剣が嫌なら、お互い素手でやるか?」


 あくまでフェアにとでも言わんばかりのファイティングポーズ。濡れた土をジャリジャリとブーツで踏みしめながら、アスタチンはこちらに迫ってくる。あっという間に距離が迫り、がっつりと目が合って、完全に彼の間合いに入る。


 アスタチンが言う。「……逃げるなよ」


 俺は答えない。いや、答えることができない。


「なんだよその目。やっぱあいつらがお前をダメにしたんだな」


 アスタチンはそう言って、こちらに向かって飛び込んでくる。その目に映るターゲットは俺ではなく、重症病棟の中の患者たちで、体が硬直する。


 やるしかない――


 アスタチンが俺の脇をすり抜けた瞬間、震える手に力を込める。握る手は震え、心臓が早鐘を打つ。迷いはまだ残る。でも、これ以上逃げてはいられない。


 俺は覚悟を決めた。


 俺は剣をつかむと、アスタチンが突入したわずかの隙を突くように、重症病棟へと転がり込んだ。

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