6-3
反応が遅れた。
間髪入れずアスタチンが放ってきたのは、石床を破砕する凄まじい斬り下ろしだった。
縦に長く伸び、俺の背後にいるパイロンまでをも巻き込むその攻撃は、剣の一直線上にあるすべてをえぐり取るかのようだった。
「くっ……」
俺は辛うじてパイロンを抱え、それをかわすことしかできなかった。
ふたりして床に転がり込む。
破壊された床の破片が俺の額に傷をつけ、ぶつかり合いひっくり返った椅子が騒々しい音を立てる。
マルゴの悲鳴が上がる。ガーモがバサバサと羽ばたいていく。
体勢を立て直す間もなくやってくるアスタチンの追撃を、俺は鞘に入ったままの剣で食い止める。
「どうして抜かない?」
と、アスタチンが言った。
「…………」
俺は何も答えられなかった。ただ、柄と鞘をつかんで、懸命にこらえるだけで精一杯だった。
彼の右頬でグロテスクな瘢痕が引きつり、赤くなっている。膝立ちになった俺を見下ろすその瞳も、燃えるようにギラついている。
「お前、もしかして舐めてんの?」
彼が再び大剣を振りかざすと同時に、俺の真横で転がるパイロンがつぶやいた。
「深淵より出ずる紅蓮の波。我が血管を流れる猛火よ、臨界を越え、概念を焼き尽くす旋律を刻め」
刹那、爆音が轟いた。
「なっ!?」
ものすごい熱波を感じたのもつかの間、巨大な火の球が俺の頬の産毛を焦がしながら通過していく。
思わず右を向くと、パイロンの手元から本が落ちていた。指先もひどく痙攣し、その目は焦点が合わず、うつろだった。唇だけが不自然なほど赤く、乾いた顔の中でそこだけが生きているように見えた。
「紅き洗礼を。その肉体から魂の終焉まで、一滴の涙も残さず蒸散させよう」
再び火球。
「熱っちぃっ!」
凶悪な火炎魔法の直撃を食らい、外套を黒く焼き焦がしながらも、アスタチンは弾き飛ばされ、膝をつく。
露出した皮膚は赤黒く爛れ、焦げた臭いが鼻を突く。それでも彼は、歯をむき出しにして笑いだした。
「灰塵に帰せ。全存在を拒絶する灼熱の審判を」
そこへさらなる火球が追い打ちをかける。俺は、残像を残し連発される赤い射線を目で追うことしかできない。なおも早口でうわ言のような詠唱は続き、パイロンの火炎魔法は止まることがない。連続する爆炎が重なり合い、いつしか赤い壁のような炎の帯となってアスタチンを包み込む。
「クソがっ!」
しかし、アスタチンもまた強い。
「殺すっ!!」
彼はよろめきながらも、すぐに立ち直り、迫りくる炎の波にも怯まず正面から飛び込んでくる。大剣を盾のように前方に構え、火炎の奔流を強引に押し割りながら突進してくる。
が、
ガギンッ――
その大胆な横薙ぎが振り抜かれる寸前、白衣が視界を横切った。
次の瞬間、大剣は俺の目の前で止まっていた。
院長が一歩踏み込み、刃の腹を踏み抜いている。石床が鈍く砕け、衝撃が足元から伝わってきた。刃は床に縫い止められ、わずかに震えるだけだ。
低く響く声が、ホールを震わせた。
「軽症病棟で暴れるな」
院長は腰を落としたまま視線を上げる。
「お前の相手は俺だ」
その隙に、いつの間にか拾われた本がパイロンの手元へと戻されていた。
腰を折られ、膝をついたままのアスタチンに彼は続ける。
「来いよ。依存症者」
ギンッ――
と、返事代わりにアスタチンが剣を半回転させ、院長の足を弾き飛ばす。素早く一歩引いて、大剣を正眼に構え直す。
「おい」
院長がそんなアスタチンを見据えたまま、後方の俺へと手を伸ばす。
「使わないなら剣を寄越せ」
俺はつばを飲み込んだ。
視界の端で、レイル先生がマルゴの車椅子を押して逃げていくのが見えた。ジクロロメタンとクレープが少し遅れてそれに続く。パイロンの炎で焼かれた椅子や机から黒煙が上がる。煙は天井に溜まり、視界がじわじわと灰色に濁っていく。目が痛み、涙がにじむ。
「放火癖をつれて重症病棟に避難しろ!」
院長はこちらに顔を向けず、ことさらに語気を強める。
「さっさとよこせ!」
アスタチンが踏み込んでくる。彼は笑って、あえて隙だらけの構えを作る。大剣が高い天井すれすれまで上がって、院長もまた、獲物を前にした獣のように鼻を鳴らす。
院長がクイッと指を曲げ、剣を寄越せと繰り返す。
「俺はこいつと戦いたい。お前ならわかるだろ?」
みるみるうちに広がっていく炎が、倒れた椅子やカーテンを舐め取りながら俺の体を焦がす。両手が震え、汗でぬめった柄が手から滑り落ちそうになる。
アスタチンの大剣が振り下ろされる。
世界が、粘つくように遅くなる。少しずつ、しかし確実に院長に迫る巨大な剣。その向かい側にある赤い瞳と目が合った。
戦いたいのは俺だ――そう思ってしまった。
それでも――
ここで抜けば、俺はまた同じ顔をする。あいつと同じ目で、同じ笑い方をする。
それが嫌だった。
だから、俺は顎を引いた。剣を強く握り直すと、数歩先に立つ院長に向かって放り投げた。
空中で回転する鞘を、院長が跳躍しながらひったくる。着地と同時に鞘を弾き、刃を滑らせる。
次の瞬間、現実が戻る。
甲高い金属音が鼓膜を打ち、火花が視界いっぱいに散った。
目を瞬いたときには、院長がアスタチンの大剣を受け止めていた。
アスタチンが言う。「なんだお前は!?」
院長が答える。「なんだって? お前と同じだよ」
「あぁっ!? 何わけわかんねーこと言ってんだ?」
「お前ならわかるだろ?」
空気が軋み、目に見えない衝撃が波のように押し寄せる。剣を打ち鳴らし迫り合うふたりを尻目に俺は立ち上がる。本を落とさせないように注意して、パイロンの片手をつかんで走り出す。
その体は驚くほど軽く、今にも崩れ落ちそうだった。呼吸は浅く速く、触れた掌が焼けるように熱かった。
「おい待て!」
そんなアスタチンの怒号が耳をついたが、俺は構わず病棟の外へと飛び出した。




