6-2
パイロンと名乗った男は、本を持ったまま、たどたどしく話し続けた。
彼は開いたままのページに時おり視線を落としながら、家族も、住んでいた村も、過去のすべてに火をつけたことを明かした。何もかもを燃やしつくし、本当の名前すら覚えていないと、何度も息継ぎしながら言い切った彼は、最後にまっすぐ前を見た。
「これだけは言わせてほしい」
その瞳は、目を逸らしたくなるほど、青かった。
「君たちが死ぬのを、殺すのを、僕は止められない。止める権利もない。でも、僕はかつて君たちに救われた。君たちが死ぬ前に、それだけは伝えたかった」
パイロンは一息ごとに休みながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「僕はひどいことをしたし、ひどいことをされた」
その視線が一瞬、紫髪の女に向いた。
「僕だって死にたい。ずっとそう思ってた。でもタンタル、マルゴ、ジクロロメタン、みんながここで、みんなの辛さを話してくれるおかげで、僕にもまだ居場所がある。そう思えた。クレープやレイル先生が助けてくれるおかげで、自殺しなくて済んだんだ」
俺はぽかんと口を開け、その場に突っ立っていた。剣をつかんだ手をぶらんと垂らし、緑髪のガキともども凍りついたように動けなかった。
「島を出て、退院した人たちに感謝の気持ちを伝えるのが、僕の夢だ。でも……」
再び彼が目を伏せると、ページの上に涙がこぼれる。一粒、二粒。それでも彼は、顔を上げる。
「ここに来て、十六年経った。もう、会えなくなった人も多い。だから今、君たちにだけは、伝えられるうちに伝えたかった。僕を救ってくれて、ありがとう。それだけだよ」
そう言うと、彼は静かに腰を下ろした。
「邪魔して悪かった。ごめん、続けて……」
そんなパイロンの話は、俺の空っぽの胸に、重い石を落とすようだった。
救われた、だと?
そんなはずはない。俺はここで、誰かに何かを与えた記憶なんて――
そんな張りつめた空気をよそに、ひと続きの廊下の奥から一匹の犬がホールに駆け込んできた。
クリーム色の短毛、垂れた耳をしたそいつは、薄汚く黒ずんだ紐を咥えていて、こちらに小走りに駆け寄ると、俺の足元にそれを置いた。
犬の何か言いたげな上目遣いに、俺は剣を床に置いた。紐を手に取ると、湿った土の匂いがした。
あぁ、と思い出す。
昔、こいつにこの紐を奪われた。最悪の気分で、ここで最初の自己紹介をした。
その後もこいつはしつこくて、俺はこいつの頭を叩き割った。
――いや、叩き割ったのは院長だ。
その瞬間、記憶の蓋が外れ、忘れてはいけないあの瞬間が甦った。
俺は、こいつを守れなかった。自分の身の可愛さに、見殺しにした。
だけど、こいつとはよく散歩に行った。一緒に洗濯物を干した。重症病棟からこいつを抱えて帰ったこともある――そして、そうだ。
俺はあのとき、こいつの頭を叩き割るかわりに、スープの皿を差し出したんだ。
こいつの名前は……クレープ。
その瞬間、クレープが「ワン」と鳴いた。舌にあの時食べたパンの味が甦る。ずっとろくに食べていない俺にとって、ねっとりとした甘さは吐き気を催すほど不快だった。クレープがキラキラ輝く瞳で俺を見ていて、元気よく振られる尻尾に、胸がずんと重くなった。
パイロンという男といい、俺は名前を忘れた奴らに感謝されていた。だけど、過去の俺は、誰かを救いたくてそうしたわけじゃない。ただ、自分の脳内麻薬のために、偽善をしていただけだ。その事実が、両肩に重くのしかかる。
相手も忘れていてくれていればよかったのに、そうでないという事実。それが胸を締め付け、その痛みと引き換えに、さらに霧が剥がれていく。
――マルゴ。
――ガーモ。
……ジクロロメタン。
最後に、レイル先生。
俺たちはここで何ヶ月も、集団療法を繰り返してきた。みんながゴミのような過去を晒し合い、互いを利用し合い、どうしようもなく暮らしてきた。
死もまた逃避だった。
忘却もまた逃避だった。
死んでしまえば、忘れてしまえば、何も考えなくて済む。得をするのは自分だけだ。なにが謝罪だ。俺は全然反省なんてしていない。
今さらになってそんなことに気づいた俺は、床に落ちた剣を拾い、静かに鞘に戻した。
「興が削がれたな」
と、緑髪のガキが言った。
「あぁ」
と、俺は答えた。
一生ここで生きていくしかないんだろう、そう思った。俺は鼻から大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐く。そして、土だらけの紐を新しい服の上に巻きつけた。
ガウンでない、ただのシャツに巻いたところで特に意味はなかった。そもそも、もう隠す必要はないし、隠してはいけなかった。
俺は、このろくでもない場所の、ろくでもない一員なのだから。
その戒めとして、俺は紐を固く腹に結びつけた。
「ここはとんでもねぇ依存症者ばかりだな」
沈黙を破るように、院長が言った。
「正直ここを重症にしたほうがいいんじゃないか? なぁレイル」
その厭味をかき消すように、パン、パン、とレイル先生が手を叩く。
「いいですか皆さん。失敗しても、次に活かせばいいのです」
眼鏡の裏でにじんだ涙を拭いながら、彼女は続ける。
「皆さんはいつからでも、何度でもやり直せます」
そのとき、大きな音がして玄関が開いた。
俺はそちらを見た。
その瞬間、世界が一瞬、音を失った。
そこには、見覚えのある男が立っていた。
上半身裸に穴だらけのマント。赤い髪に赤い瞳、右頬の傷。巨大な大剣を背負った俺と同い年くらいのそいつは、悪夢がそのまま扉を蹴破って入ってきたかのようだった。
「久しぶりだな、タンタル」
それは、忘れるわけのないしゃがれ声で、
アスタチンが扉の向こうに立っていた。




