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6-1

「キミの名前なんてボクも忘れたよ」

 車椅子に乗った紫髪の女が言った。

「なにそのガリガリの体、キモ」


「自死する前に、もう一度私を殺して欲しい」

 紫髪と似たような服を着た緑髪のガキも言った。

「首を切るだけでは、エリクサーの効力は消せないのだ」


 なんなんだこいつら、と俺は喉の奥でつぶやいた。


 俺はすべてを打ち明け謝罪して、ひとり頭を下げ続けていた。最初こそ真面目にこいつらの話を聞いていたが、無茶苦茶な難癖に少しずつイラつき始めていた。


 俺の新しいシャツに、さっそく汗が滲んでいた。短く切りそろえられた髪、特にうなじのあたりに違和感があった。俺は水を浴びて、歯を磨き、髭を剃って、髪を切られてからここに立っていたが、それも早速無駄になりつつあった。


「まず、謝ってどうこうしようってのが気に食わない」「そうだ。謝罪などいらない。殺してくれ」


 そんなふうにグダグダと文句を垂れ続ける紫髪と緑髪に、こいつらも俺と大差ないじゃないか、そう思った俺は頭を上げた。


 軽症病棟の玄関を入ってすぐのところ、広いホールに椅子を円形に並べ、俺以外の患者たちが座っていた。俺の右隣は車椅子の女で、左隣は緑髪のガキだ。向かい側には褐色の肌、黒髪に黒縁メガネをかけた女医。その隣には女医の白衣より肌が白く、髪も白い男が座っていて、男はなぜかずっと本を読み続けていた。


 俺は過去、この場にいたことがある。


 それは間違いなかった。だが、懐かしさなんてものは感じず、ただ胃が雑巾を絞るかのようにキリキリ痛むだけだった。


 大粒の汗が顎を伝って床に落ちたところで、


「死にたければ勝手に死ねば?」

 と、車椅子の女が言った。

「できるものならね。ボクを押し倒す根性もなかったくせに……」


 あぁ、と俺は思った。


 こいつと、その肩に乗ったカモ。あのカモはたしか言葉を話した気がする。こいつと同じくらいウザかった記憶がある。


 すると今度は、


「首を切っただけでは駄目なのだ」

 と、緑髪のガキが言った。

「脳と心臓を同時に止める必要がある。次こそは失敗させない」


 こいつは女のように見えるが、たしか元は男だった。実年齢は八十くらいの爺さんで、何度も何度も俺をたぶらかした。たしか、最後はいきなり魔法を撃ってきた瞬間を反撃してやったんだっけ?


 こいつらの言うことはいちいちムカつくが、強い感情に刺激され、徐々に記憶が蘇ってくる。最初の頃、俺はよくここでトレーニングをしていたはずだ。


 女医がじっと黙ってこちらを見ている。その白衣の裾から褐色の脚が伸び、中に何も着ていないように見えて、直視できない。そうだ。たしか俺はあの女医とキスするとかしないとか、わけのわからない約束をしてたんだ。


 その女医の隣では、真っ白な男が本を読み続けている。こいつは……あー、こいつから辞書を借りて、俺は文字を学んでいたんだっけ? で、今あいつが読んでいる本のタイトルは……なんだろう? わからない。


 そして、何よりわからないのが、彼らの名前だった。


 細々とした記憶、おそらく過去の俺が多少なりとも現実逃避できた、快楽に紐づいた記憶だけは、なんとか思い出せた。


 だけど、それを授けてくれた彼らの名前だけは思い出せなかった。


 それはおそらく、俺にとって興味があるのは彼らそのものではなく、彼らとのやり取りからもたらされる脳内麻薬だけだからで、強い恥の感情が身体を焼いた。心臓が胸を打ち破るかのように脈動し、おのれに対する怒りが、熱い蒸気となって脳を焼いた。


 頭のなかでアスタチンの声がする。「殺せ」


 それは、震えるほど甘美な誘惑だった。やめろ、という理性の声も聞こえたが、それは入隊したての新兵のように頼りなく、もうどうでもいい、そんな感情の方が強かった。


 とにかく、疲れていた。


 俺はどうしようもなく壊れていて、依存症(びょうき)はもう絶対に治るわけがない。そんな諦念が頭にこびりつき、鉛のような倦怠感が両の肩にのしかかっていた。


 たぶん、これも院長の思惑通りなんだろう。


 そう思って、俺は輪の外にいる院長を見た。彼は興味なさそうに壁にもたれ、あくびをしていた。案の定、カチンときて、彼の手のひらの上であることは間違いなかった。


 俺は投げやり気味に、自分の椅子の下に転がる剣へと目を向けた。


 金細工の紋章がキラリと輝き、俺は言う。


「あぁ、死ぬし、殺してやるよ」

 その声は、自分でも驚くほどホールに響いた。

「もう全部どうでもいい」


 その言葉に、ぺちゃくちゃとうるさい紫髪と緑髪が、言葉を止めた。


 俺は剣を手に取った。そのまま、胸の奥の黒い渦に身を委ねた。


 俺はもう謝った。死ぬ前に、殺されたがっている奴を一人殺したとて何が悪い。そう独りごちて、俺は一歩前に踏み出した。もう自分を抑える意味も、相手を抑える意味もわからなかった。


 左を向き、両手で剣を掲げ、緑髪のガキを強く見据えた。


 俺は言う。「今、ここででいいな?」


 緑髪が答える。「あぁ」


 それを合図に俺は剣を鞘から引き抜くと、無表情に座る緑髪の前で半身に構えた。腰を落とし、刃を高く掲げると、奇妙な身軽さが全身を駆け抜けていった。


 二百日の不摂生で肉は落ちたが、その分、キレはよくなったのかもな。


 いやに冷静にそう思ったところで、投げ捨てた鞘が床で鳴り、窓から吹き込んだ冷たい風がカーテンを跳ね上げた。


 開いた窓から潮の匂いを含んだ風が吹き込み、緑髪と彼女の人形のようなドレスを撫でていった。カーテンの隙間から波の音がして、暗雲が黒い海に垂れ込めているのが目に入った。


 首を斬り、間髪入れず心臓を突く。


 頭の中で最速の展開が組み上がり、俺は小さく息を吐いた。


 空気を切り裂く風が、緑の髪を乱したところで、


「ちょっといいかな」


 低く、澄んだ男の声が場を侵食した。聞き覚えのないその声に、俺は何か冷たいものを感じた。研ぎ澄まされていた殺意が、一瞬止まった。


 刃が、ガキの首に触れようかというギリギリで止まっていた。


 窓の外からの潮騒だけが場を満たすなか、俺は目だけで声のほうを見た。


 ずっと本を読んでいた白ずくめの青年が、おずおずと手を上げていた。


 彼はゆっくり本から顔を上げた。ギッ、と椅子を引く不快な音がホールに響いた。これまで風景の一部でしかなかった男の影が、立ち上がることで巨大な異物となって俺たちの間に割って入った。


「僕は……パイロン、放火癖(パイロマニア)だ」


 その声は、彼のひょろりとした見た目に反し、やはり妙なトーンを帯びていて、彼は続ける。


「僕の話も聞いてくれないか?」

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