5-8
「逃げるなよ」と問われるあの夢を見るのも、何度目だろう。
俺は今日もまた重症病棟の藁の上で目を覚ました。
「逃げるなよ」院長にその言葉を言われた日以来、俺はまともに飯を食わなかった。
院長が持って来るパンやスープを俺は投げ捨てた。
もちろん、それだけじゃない。
牢の隅には小さな穴が開いていて、穴から崖下の海が見えた。要はそこがトイレだったが、俺は決してそこで用を足さなかった。
着替えを差し出されても着替えず、俺は汗と垢と糞尿に汚れ悪臭を放っていた。歯磨きを、水浴びを、俺は拒んだ。犬でもできることを俺はしなかった。日中はひたすら白いタイルを数えて過ごし、死んでもトレーニングや、まして戦うなんてしないと心に決めていた。
院長はそんな俺を見て、露骨に嫌そうな顔をした。そのたびに俺は嬉しくなった。
これが、俺の新たな『戦い』だった。
相手もまた狡猾で、定期的な点滴や回復魔法で、衰えかけた肉体だけは強制的に元へ戻されてしまう。だが、心だけは決して崩されることなく、ただ奴を楽しませないことだけに、意識を集中させていた。院長は、鉄格子にも入口にも鍵はかけなかったが、俺は出ていくこともあえてしなかった。出たら負けだと思ったからだ。
俺は逃げず、攻撃は効いているようだった。
院長は徐々に、重症病棟に来なくなっていった。一日おきが、三日おきに、ついには一週間に一度ほどになった。
そうしているうちに月日が流れ、寒さが深まり、窓の外で雪がちらついていたかと思ったら、今度はまた暖かくなってきた。重症病棟から一歩も出ることなく冬が終わり、春が来たみたいだった。
そんなある日、ガン、という開閉音とともに、院長が病棟にやってきた。
今日は久々に犬も連れていて、彼らはずかずかと開けっ放しの檻の中に入ってきた。
ハッハッ、と息を切らす大きな犬の濡れたアーモンド型の瞳に、知らない男の顔が映っていた。頬はこけ、髪は長く、泥にまみれたような無精髭がみすぼらしい。その瞳に映った男が、自分だと気づくのに一瞬かかった。
この感じだと、また拘束されて、回復魔法漬けにされるのだろう、そう思ったところで、院長が口を開いた。
「いい知らせがある。お前がここに来てから今日でちょうど二百日だ」
俺は答えた。
「俺からも教えてやる。ここにあるタイルは四千八百九十二枚だ」
一瞬の間があって、院長がうつむき加減に目を逸らした。
「……やはり、俺の見込み違いだったみたいだな」
彼は心底つまらなそうに肩を落とした。
「お前は偽物。ただの依存症者だったんだな」
「……どういう意味だ?」
「お前の戦いは、ただの逃避だよ」
「は? 意味わかんねーよ」
「なら、少し話を変えようか。お前、その犬の名前を覚えているか?」
「え?」
「軽症病棟の患者たちの顔を、名前を覚えているか?」
俺は愕然とした。
「……嘘、だろ?」
今、目の前にいる犬の名前がわからなかった。絶対に忘れてはいけないということはわかる。だが、なぜ絶対に忘れてはいけないのか、わからない。頭の奥で、なにかが邪魔をする。触れれば思い出せそうなのに、俺はその手前で止まってしまう。すっと記憶が逃げていく。
それだけじゃない。軽症病棟で過ごしていたときのことを、俺はぼんやりとしか覚えていなかった。――女の医者、――車椅子の女、――本ばかり読んでる奴、――隣のベッドのあいつ。
そいつらの名前は?
わからなかった。
一人、一人の顔を思い浮かべようとするたび、ざらついた雑音が脳裏をこすり、輪郭が崩れていく。名前の最初の一文字に触れた瞬間、耳鳴りのような圧が走り、思考が弾かれる。
俺がはっきり覚えている固有名詞は、ただ一つ。アスタチンだけ。
院長が拳を固め、犬の頭をコツコツと軽く叩きながら言う。
「今のお前は、戦わないことに逃げているだけだ」
「違うっ!」
俺は飛び上がり、院長の胸ぐらにつかみ掛かる。つかみ掛かってしまう。
「違わねぇよ」
と、院長が答えると、俺の足元で犬が吠え立てた。それをチラと見て、院長は冷淡に言葉を続けた。
「怖いんだろう? 忘れたいんだろう? ……いや、もう忘れてるか」
「うるさいっ!!」
院長のシャツからボタンが一個、勢いよく弾け飛び、視野が急速に狭くなってくる。目の前の院長の輪郭だけが、狂おしいほど鮮明に見える。
こいつは、敵だ。
今すぐ指を眼窩に突き入れ、喉笛を食い破りたい――そんな黒い奔流が脳を焼き、俺は歯を食いしばる。もろくなった奥歯が欠ける。
頭のなかでアスタチンが言う。「なんのために生きてるんだ?」
俺は耐える。全身から汗が噴き出す。喉が引きつり、手指がしびれるが、それでも耐える。耐え続ける。
院長が再び口を開く。
「お前は今まで殺してきた人間のことを覚えているか? ともに戦ってきた仲間のことを覚えているか?」
「…………」
「覚えてるわけないよな。いつでも交換可能だからな」
「……で、でもっ、アスタチン。俺は、アスタチンを覚えてるっ!」
「それは、そいつがお前にとって一番強力な麻薬だからだろ?」
院長はそう言うと、すっかり細くなった俺の腕を軽々と振り払った。
「お前にとっては『強さ』も『戦い』も代替可能なものだった。アスタチンとやらも、より強い依存対象が現れれば、どうせすぐに忘れる」
「う、あっ……」
急激なめまいを感じ、俺はよろめき後ずさる。院長はそんな俺に冷ややかな目を向けつつ、シャツに手をかけすべてのボタンを引きちぎった。
「これを見ろよ……」
割れた腹筋と厳つい胸筋が顕になった。日に焼けた皮膚には無数の傷が刻まれていて、瘢痕や縫い跡だらけでグロテスクだった。
院長が胸の傷を指して言う。「これはビスマスにやられた傷」
院長が腹の傷を指して言う。「で、こっちはニオブにやられた傷だ」
そうやって、院長は体中の傷を指差していく。
「全部言えるぞ。これはセレン、こっちはストロンチウムにやられた。ストロンチウムはあの薬物依存者みたく不死者でな、なかなか倒せず苦労した」
心臓がぎゅっと縮んだ。全身から血の気が引いて、俺はその場に崩れ落ちた。
院長は続ける。
「俺は、俺に傷をつけたそんな強敵どもの名を、一人残らず覚えている。忘れる理由がないからな」
胸の奥まで食い込むような声で院長は続ける。
「だが、お前は俺に傷を刻めない。戦いの高揚は、どんな快楽にも変えられない。そう思っていない偽物に、俺がやられるわけがない」
俺は院長の演説を前に、言葉を失っていた。
こいつは狂っている。俺よりもずっと。
だけど俺は、戦いにすら本気になれていなかった。
俺があえて強敵と戦ってきたのは、剣士の誇りだと思っていたのは、弱い奴と戦ってもすぐに飽きるから、ただそれだけの理由だった。
生きている意味だって、あると思っていた。いや、あるはずだと、どこかで信じていた。
でも――
何も出てこない。
何も浮かばない。
俺の中は、空っぽだ。
アスタチンが言った。「お前、獣みたいだな」
その瞬間、何かがぷつりと千切れた。
もう、どうでもよかった。
俺は床に這いつくばり、部屋の隅で埃を被っていた剣に震える手を伸ばした。鞘から抜き放ち、その鋭利な先端を自分の腹へ向けた。
だが、その刃が肌に触れる前に、院長の脚が俺の手首を無慈悲に蹴り飛ばした。
――ッ!!
骨を砕かんばかりの激痛が走り、俺は体ごと吹き飛び、壁に激突する。あまりの熱さと痺れに、俺はタイルの上で虫のように丸まり、声のない悲鳴を上げた。
深い溜め息をついて、院長がこちらに近づいてくる。名を忘れた犬が、心配そうに俺の身体を舐め始めて、俺は、俺は……
院長が、長く伸びた俺の髪を乱暴に掴み、顔を持ち上げた。
「軽症病棟に移動だ」
「……死のうとしたのに、軽症か?」
「剣をそんなふうに使うやつは、戦闘狂じゃない。ただのありふれた依存症者だ。それに――」
「……それに?」
「あれだけのことをしでかした奴を、謝罪もなしに死なせるわけにはいかんだろう?」




