5-6
「殺す! 絶対に殺してやるっ!!」
夢の中のあいつの声が、いつの間にか俺の声にすり替わっていた。喉が裂けるほどのその絶叫に、俺は目を覚ました。
俺は鞘ごと剣を抱いて眠っていたようで、自分に注がれる強烈な殺気に視線をやると、近くの壁にもたれかかった白衣に髭面の男――敵が、タバコ片手にこちらを見ていた。
藁の上から即座に転がり起きて、床を踏む。腰を落とし、鞘を掴み、剣を振り抜こうとしたところで、我に返った。
ここは洞窟でも、街道でもなかった。
そのことに気づいた瞬間、辺り一面の白いタイルが、さっきまでの残像を無機質に塗りつぶしていった。
鉄格子の引き戸は開け放たれ、そのすぐ側で、紫煙をくゆらせ、院長が立っていた。その足元にはクレープがいて、機嫌よさそうに尻尾を振っていた。
俺の拘束は知らぬ間に外されていて、院長が言った。
「ちょっとはマシな顔になったじゃねーか」
鼻を刺すタバコの臭いに吐き気を覚え、俺はまだ夢と現実の境界に立ったまま、低く唸った。
「……殺す」
だが、そうしてはいけないことはわかっていた。剣を抜きかけたままの中腰姿勢で、俺はまだ踏みとどまっている。
院長はそんな俺を見て、面白そうに目を細める。
「なるほど。薬物依存者のときも、そうやって殺ったんだな」
その言葉に、剣を握る手にぐっと力が入る。
――これは罠だ。剣を離せ。
そう言い聞かす。俺は首輪の焼けるようなあの締めつけを思い出そうとする。大きく息を吸って、荒い呼吸を抑え込もうとする。
「……殺らない」
しかし、院長は鼻で笑って、タバコを牢の隅に投げ捨てた。
「そうか。……なら、犬と遊ぼうかな」
そして次の瞬間、奴は右拳を天高く掲げた。
唐突な動きに、思考が遅れた。
間髪入れず、その拳が真っ直ぐ振り下ろされる。
その標的は――院長の足元、俺との間にいたクレープの平たい頭。
時間が引き延ばされる。一瞬のうちに、脳がシミュレーションを出してくる。奴までは三歩もない。踏み込めば届くが、その間に拳が落ちる。物理では半歩届かない。だが、衝撃波なら届く。踏み込んで、抜く。奴の首を落とす。
院長の目も、そうすれば止められるぞ、と言っている。
同じ時間軸の中で、奴は明らかに俺の反応を待っている。衝撃波を院長の首に叩き込む。それが、クレープを守ることのできる唯一の解。それを理解したうえで、俺を試している。
俺は足裏で床を蹴り、滑るように踏み込んだ。
腹に力を込める。
鞘から剣が抜ける。
「楽しいか?」
だが突如、あの洞窟で聞いた声に話しかけられ、ほんの一瞬、腰が止まった。
このまま全力で振り抜くと、剣と同化して俺は狂う。戻れなくなってしまう。
そんな気持ちが、刃に乗せるはずの力を、寸前で削いだ。
刹那、鈍い破砕音が、牢を震わせた。
熱い飛沫が顔に当たった。
「あ……」
院長の白衣が真っ赤に染まり、その足元でクレープが崩れ落ちた。
クレープの頭部は、原形を留めていなかった。院長の拳が肉にめり込み、頭蓋はあっけなく粉砕され、力なく伏した死体の首元から、粘ついた血が白いタイルを侵食するように広がっていった。
俺の剣先は、膝を曲げ深く腰を落とした院長の首元、問題なくそこを狙えていた。
しかし、院長は無傷だった。全力なら、たぶん首を落とせただろう。
魔剣から発せられた衝撃波のこだまが、牢の壁に鈍く反響した。その音が頼りなく立ち消えると同時に、院長の褐色の首筋に、赤い線が一本斜めに浮かんだ。そして、後ろの壁に、その傷を拡大したようなごく浅い亀裂が一つ。結局、魔剣のかまいたちは、その程度の力しか出せなかった。
数瞬の沈黙を経て、強烈な血の臭いが鼻を刺し、腹の底から強烈な自己嫌悪がせり上がってきた。
守れなかった。
その事実が、肺を潰し、俺は――
その瞬間、足元からぐちゃり、と湿った音がした。
院長が拳を引き抜くと同時に、床に広がったクレープの血が中心へ吸い寄せられていく。砕けた骨片が震え、互いに引き寄せられる。肉が盛り上がり、皮膚が再び張りついていく。
「……なにが、どうなってる」
俺の声はかすれていた。
院長は露骨に不機嫌そうな顔で舌打ちした。
「こいつは、あの薬物依存者から盗んだエリクサーを舐めてる」
彼は淡々と続ける。
「エリクサーを常用し続けると、あるところから不死になる」
「……ってことは、ジクロロメタンも不死なのか?」
わずかに息が通った気がした。まさに今、クレープの砕けた頭蓋が盛り上がり、耳の輪郭が浮かび上がっている。これと同じことがジクロロメタンの頭で起こっていれば。
「あぁ、そうだ。あの程度じゃ無理だ」
「なら、俺はまだ……?」
ぼやけていた世界に、少しだけ焦点が戻る。誰も死んでいない。俺はジクロロメタンを殺していない。
だが院長は、すぐにそれを踏み潰す。
「勘違いするな。お前は薬物依存者を殺してる。そして、犬を守れなかった」
その言葉が、鋭く胸に刺さる。
そして、俺が何も反論できないでいるうちに、クレープが完全に再生した。
何が楽しいのか、尻尾を振って院長の周りを跳ね回るクレープの、血でバサバサに毛羽だった胴体と、復元したばかりで生々しいピンク色の頭とのギャップが気持ち悪かった。
院長は頬にできた切り傷を指でなぞると、血を汚れた白衣で乱暴に拭った。
「怖かったんだろう?」
彼はそう言うと、俺とクレープを連れて牢の外に出た。鉄格子を閉めることもなく、睨みつける俺の視線に振り返ることもないまま出口へ向かい、つぶやいた。
「……逃げるなよ」
そんな声の残響を、冷たい鉄扉の閉まる音がかき消した。ガン、という錆びついた金属音が牢の中に充満し、その後はもう静寂だった。
俺は剣を握ったまま立ち尽くしていた。
誰も死んでいない。俺は、まだ俺のままでいられている。そう、自分に言い聞かせる。
だけど、俺はあの一瞬、刃を止めた。
クレープを守れなかった。いや、守らなかった。自分が狂ってしまうことの方が怖かった。そんな事実だけが、腹の底に重く沈んでいた。




