5-4
「よく寝てたな」
その声が、街道を切り裂いた。指から柄の感触が消え、かわりに、ガチャン、と金属音がして、両手足と胴に拘束の冷たさが走る。
「昨夜はずいぶんとお楽しみだったじゃねーか」
跳ね起きようとするもまるで動けず、右上から同じ声が降ってくる。視線を向けると、白衣姿の院長がすぐそばで俺を見下していた。
「なんだこれっ!? ここは……どこだ!?」
「さすがに、わかるだろ?」
院長の声が壁にはねかえされ、嫌な厚みを持って響いてくる。
「お前もよく知ってる場所だ」
その一言に、肝が冷えた。
開きっぱなしの鉄格子に、壁や床を埋め尽くす白いタイル、フレームに藁を敷いただけのベッド。重症病棟――その単語を思い出す。
「わかっただろう?」
と、院長が言った。俺は何も答えられなかった。
よく知っているのは、この場所だけじゃなかった。目覚めた瞬間から、鼻を刺している濃厚な臭い。まさかと思って視線を落とし、心臓が跳ねあがる。服には胸から腹まで、生乾きの血が重く貼りついていた。
その臭いは、この部屋全体に染みついている。
格子の向こうに置かれた小さなテーブルの下で、クレープが丸くなっている。その近くには赤黒く染まったズタ袋が転がっていて、底からは同じ色の液体がにじみ出していた。
俺の沈黙を楽しむように、院長がニヤリと笑う。
「おい犬」
院長の声に、クレープが尻尾をぴんと立てて起き上がる。隣のズタ袋に頭を突っ込み、なにかを咥え引きずり出してくる。
俺は絶叫した。
クレープが咥えていたのは、ジクロロメタンの生首だった。
「なっ!?」
俺は必死に体を動かそうとする。しかし、多少の遊びこそあれど、枷は手首足首に食い込むばかりで、ほとんど動けない。
「やめろっ!!」
クレープが牢の中まで生首を引きずってくる。白い床に刷毛で引いたような赤いラインができていく。
ジクロロメタンの首と目があった。
少女の目は大きく見開かれ、白目のところが混濁し始めていた。ぽかんと半開きになった下唇は、ドス黒く変色している。髪はまとめられたままで、白い髪飾りには血が飛び散り、緑の髪が汚らしく絡まっていた。
俺は吐き気を覚えた。むかつきが一気にせり上がってきて、嗚咽しかけたところで、院長が言った。
「お前が殺ったんだ」
「……は?」
「お前が首を切ったんだ」
「うっ、嘘だ」
「嘘じゃねぇ!」
院長は足元で機嫌良く喉を鳴らすクレープから生首をひっつかむ。手荒く髪をつかまれた生首から髪飾りが弾け飛ぶ。髪がほどけ、みじめに吊り下げられた頭が俺の顔の前にぶら下げられる。
「よーく見てみろ」
どろり、と断面からゼリー状のどす黒い血の塊が垂れてきて、俺は思わず目を閉じる。頬に落ちたそれはまだほのかに温かく、しかし俺からは熱を奪いながら藁の上へと流れ落ちていく。
「目を開けてしっかり見ろ。こんな滑らかな切り口、お前しか無理だろ?」
そう言われた瞬間、まぶたの裏に映像がフラッシュバックする。鞘が床に転がり、白い喉に食い込む刃。温かい飛沫。
「まぁ、その後はひどかったがな。どうすんだあの部屋。また使えない部屋作りやがって」
院長の声に合わせて、空気が震える。今度は手のひらに甦る、骨に当たる鈍い衝撃。それは何度も、何度も、繰り返されて……
ジクロロメタンの切断面から、さらなる血が俺へと滴り落ちてくる。
血は額を伝い、唇を濡らし、首へと落ちた。
首……そうだ首輪だ!
俺の首には、俺を俺から守ってくれる首輪があったはずだ。だけど今、俺の首にはあの不快で心地のいい感触はない。
「首輪は!?」
目を見開き俺は言った。顎を引いてよく見ても、やはり首輪は巻かれていない。
「首輪?」
「そうだ首輪だ。俺が人を殺したら、あの首輪が爆発してるはずだろ?」
「あぁ、レイルのあれか」
院長はそう言うと、ジクロロメタンの首を牢の隅へと放り投げ、格子の向こうへと移動する。尻尾をふって擦り寄ってくるクレープを手で追い払いながら、部屋の隅でしゃがみ込み木箱をあさる。
数秒後、院長は何かを取り出すと、鉄格子越しに俺へと差し向けた。
「これのことか」
院長の手には半円状に割れた首輪の残骸が握られていた。その断面を見た瞬間、またしても昨夜の断片が稲妻のように駆け巡った。刃が首輪を裂く金切り音。舞い散る火花。そして、俺の笑い声。
「爆発、する前に壊されちゃ、何の役にも立たんな」
院長がそれを木箱に投げ戻し、吐き捨てる。
首輪は、ガラッ、カラッ、と虚しい音を立てて、あとはもう静寂だった。
むせ返るような鉄の臭い。その後ろに、わずかに残ったバラの香り。そうだ。ジクロロメタンと茶を飲んだところまでは思い出せる。彼女から剣をもらったことも。だけどその後、何があったのか、完全には思い出せない。
だけど、両手に残る、懐かしさすらある、この実感だけは間違いなく本物で、
俺は何も変わっていない。いや、前よりも――
なら、もう俺は、
「俺を殺してくれ」
涙を流しながら、俺は叫んだ。
「今すぐ俺を殺してくれっ!!」
「はぁっ?」
格子の向こうで、院長が大げさな呆れ顔をしてみせる。
「お前なに言ってんだ? 殺してくれじゃなくて、殺させてくれだろ? ここに来たとき、俺と戦いたいって言ったのはお前じゃないか? 殺してくれだなんておかしいだろ」
俺は再びきつくまぶたを閉じる。
これは夢だ。
そう、考えようとした。これは現実じゃない。悪い夢の続きなんだ。しかし、院長の足音が聞こえてくる。鉄格子の向こう側からこちら側へ。その無駄のないスムーズな足音、達人の重心移動が、あの赤い髪を呼び寄せる。
聞きたくもないしゃがれ声が囁く。「殺させてくれ」
だめだ。目を開く。
「しっかりしろよ戦闘狂。麻酔矢だって安くないんだ」
そう言われて初めて、右肩の鈍い痛みの意味にも気がついた。一点から広がるようなしびれもまだ残っていて、院長が嘘をついていない証拠がまたしても積み重ねられてしまう。
そして、院長はもうベッドのそばでしゃがみ込んでいる。汗だくの俺の顔を覗き込んで彼は続ける。
「安心しろ。お前は俺が殺してやる。だが、まだだ」
「……まだ?」
「あぁ。俺がお前を殺すのは、お前がもっと仕上がってからだ」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。お前はまだ戦闘狂として半端だ。田舎医者の矢くらい避けられなくてどうする?」
「半端って、治そうとしてんだから当たり前だろ?」
「治す? ははっ、お前まだそんな甘いこと考えてんのか。おめでたいな」
「なんだと?」
「依存症は治らない。お前は自分を高め、宿敵を殺すことだけを盲信する戦闘狂、そうだろう?」
「そうじゃない。俺は――」
「一つ言っておいてやる。そもそもここは病院じゃない。刑務所なんだ。で、お前は死刑囚」
院長は鼻と鼻とがくっつきそうなほど俺に迫り、言葉を並べた。だけど、彼が何を言っているのかは、よくわからなかった。ただ、一気に視野が狭まり、その笑い顔がぐにゃりと歪んだだけだ。
「依存症は絶対に治らない。しかし酒を売り、賭場で儲けたい上流階級にしてみりゃ、それは困る。病院で、治ることにしないとな」
俺の頭の中はどうしようもなく真っ白で、またしても、あいつの声がする。「殺れよ。今さら我慢してどうすんだ?」
反射的に腕を振り上げようとして、鎖と枷が軋んだ音を立てる。
それを見た院長がすっと立ち上がり、ぱちんと指を鳴らす。すると、鉄格子の向こう側で、クレープが木箱に頭を突っ込み、尻尾を振り始める。
嫌な予感がして、そちらから顔を背けると、部屋の隅で横向きに転がるジクロロメタンと目があってしまう。
院長が続ける。
「俺は医者であり、刑務官だ」
彼がそう語る間に、クレープが剣を咥え牢の中へと入ってくるのが視界の端に映る。クレープはそれを、ベッドの上、俺の手元にぼとりと落とす。
息が止まる。
柄がわずかに小指に触れた瞬間、俺の頭に、指を絡めてそれを持ち、枷を切り、院長に斬りかかるまでの、ビジョンが浮かぶ。
おそらく、俺と同じことを想像しているであろう院長が笑う。
「さぁ、俺に仕事をさせてくれ」




