4-5
帰り際に波止場を見ると、舟は泊まっていなかった。院長はやはり出かけているのだろう。
クレープは軽症病棟の玄関前まで来ると、俺の手から離れ、闇の中へと駆けていった。なので俺はひとり自室に戻り、ベッドへと倒れ込んだ。
いろんなことが立て続けに起こったせいか、今日もまた眠れなかった。いや、重症病棟の出来事だけじゃない。俺が眠れない理由は、他にもあった。
こんな夜に限って、壁の向こうから二つの呼吸音が聞こえていた。小さく押し殺した息が一つ、それよりもっと小さく浅い、引きつったような吐息がもう一つ、ベッドの木枠が軋む音の隙間から、波のように浮き沈みしながら繰り返されていた。
隣はパイロンの部屋で、その二つの息の主はどう考えても、マルゴとパイロンだった。長らく戦場から離れていても俺の耳は全然なまっちゃいなくて、壁越しといえど間違えるわけがなかった。
俺はたまらず起き上がる。気をそらそうと、棚から『水魔法を利用した農地塩害対策』を取り出し、そのページをめくってみる。だけど、文字は目を上滑りするばかりで、まったく集中できない。加えて、二人の吐息はどんどんヒートアップしていく一方で、いよいよ我慢できなくなってくる。
「うるさいな」
と、隣のベッドから、先に反応したのはジクロロメタンだった。
「これじゃ瞑想もできやしない」
その刺々しい口調に、俺は聞いた。
「一体、何がどうなってるんだ?」
「どうなってるもなにも、あの女が本性を表しただけだ」
「あの女って、マルゴか?」
「そうに決まっているだろう。にしても相手は火炎使いか。かわいそうに」
「かわいそうって、マルゴたちは何してんだ?」
「何って、ただの代償行動だろう。いや、あの女にとっては、ギャンブルこそが代償行動か」
「は?」
俺はジクロロメタンが言ったことの意味を理解できなかった。
いや、理解できるがゆえに認めたくなかった。それを認めたとたん、俺がこれまでマルゴに行ってきたことのすべてが、無意味どころかむしろ逆効果だったと証明されてしまうからだった。
だから俺は、耳を塞いだ。そのまま布団に潜り込もうとしたちょうどそのとき、閉ざされたカーテンがふわりと膨らんだ。次いでバサバサという羽音とともに、一羽の鳥が舞い込んできた。
それは、本来ならもう消えているはずの鳥だった。
頭が緑でくちばしが黄色い、繁殖期が終わっても鮮やかな羽毛のままのその鳥は、自分の体よりも少し大きい小包を紐で吊り下げ咥えていた。そいつはジクロロメタンのベッドに下りると、彼女に小包を手渡して、くちばしを開いた。
「ジクロロメタン卿の勝ちダッ」
その声も間違いなくガーモで、俺はベッドから転がり落ちた。
「なんで、なんでお前がっ!?」
「ダッて、お前首輪してるダろ?」
ガーモが答えた。
「首輪が外れたら消えるって条件ダッた。でも今は、まダッはずれてないダッ」
「それに……」
今度はジクロロメタンが言った。
「私とこいつは賭けをしていてね」
「そんな、そんなことって……」
混乱し、尻もちをついたままの俺を無視し、ジクロロメタンはガーモから手渡された小包を開封し、中から透明な液体が入った瓶を取り出した。コルクの栓を開け、手で扇いで臭いを嗅ぐと、うっとりとした声でつぶやいた。
「ほう。なかなかに上質なエリクサーだ」
「お前、本当に、何してっ!?」
息を乱しながら俺は言う。壁の向こう側から今なお聞こえる、鼓膜にねっとりとへばり付くかのような喘ぎ声が、輪をかけて俺を責め立てる。
「なに、鳥を失ったあの女が一月持つかどうか、賭けていただけだ」
ジクロロメタンは瓶に入ったちゃぶちゃぷと揺らしながら、言葉を続ける。
「そして私は勝った。それだけのことだ」
普段の感情のない表情とはうってかわったその満面の笑みに、俺は怒りを覚え立ち上がる。
「よくも……、よくもそんなことを……」
「お前に言われる筋合いはないな。鳥をあの女から引き剥がしたのはお前だろ?」
「そうダッ。そうダッ」
「それは……」
隣の部屋からの、ベッドの軋みが一段と大きくなる。
「ま、別にお前は悪くない。結局はあの女自身のせいだ。あの女がもっと自制できていれば、私は逆に貴重な薬剤を失っていた」
「やっぱりジクロロメタン卿は強いダッ」
「年の功と言うやつだ。次はそうだな。女が犬も連れ込む方にもう一瓶――」
「クソがっ!!」
ついに世界が真っ白く反転し、俺はジクロロメタンに飛びかかった。
その枝みたいな両腕をつかみ、前のめりに体重をかけて、頭を枕に叩きつける。ぶわりっ、とエメラルドの髪の毛が大きく広がる。エリクサーの瓶がベッドの縁から転がり落ちて、ドンッと鈍い音を立てる。飛んで逃げたガーモの羽根が一枚、ひらひらと舞い落ちてくる。
ベッドの上で俺に組み伏されながら、ジクロロメタンが言う。
「なぁ戦闘狂。これが私たちだ」
少女は老人にあるまじき白い歯を見せて笑う。
「快楽のためなら、なんだってする。お前だってそうだろう? 今だって、私を殺したくてたまらないはずだ。楽になりたいはずだ。だから、早く私を殺してくれ」
「ダッダッダッ。吾輩は殺すほうにエリクサー一瓶ダッ」
「私も殺すほうだから、賭けが成立しないな」
「黙れ!!」
俺は怒鳴った。喉が切れて、理性の線も切れるほどに激昂した。そんな俺の怒りは、俺の両手をか細い少女の首へと伸ばさせる。自制心は働かず、両手はまっすぐ正面から覆いかぶさるように、首の上へとあてがわれてしまう。
「うっ!」
俺とジクロロメタンの嗚咽が被る。
骨をへし折ることも簡単だろう、そんな考えた脳裏をよぎった瞬間、首輪が反応する。リング状の灼熱が皮膚を焼き、俺の両手と同じ圧を返してくる。しかし少女の皮膚はもちもちと掌に吸い付くかのようで、俺は、俺の指先がその柔らかな皮膚に食い込んでいくのを止められない。
壁越しの喘ぎ声は止まらない。ガーモが羽根を散らし飛び回る。ジクロロメタンは首を絞められてなお笑っている。
首輪が、全身が、燃えるように熱い。
やめろ!
頭の中で何者か声を発する前に、俺は、俺に向かって叫ぶ。
やめてくれーーっ!!
だけど、真っ白に狭まった視野の中央で、口角の上がった紫色の唇が何かを言いかける。俺はたまらず顔を背け、きつく自分の下唇を噛みしめる。歯が肉にめり込み、血を流すほど強く噛んで、ようやくほんのわずかに両手が緩む。紙一重で踏みとどまれる。
直後、ドクン、ドクン、と、両手の下で脈が暴れた。
それが再開した血流だと理解するまで、ほんの一瞬かかった。俺がかつて蘇生させた心臓が拍動し、いまも彼女の中で生きているのだ。
俺は鼻から大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐く。
もう一度鼻から大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐くと、青白い皮膚から手が外れる。
「ごほっ……、げほっ……、はぁっ……、はぁっ……」
呼吸を取り戻したジクロロメタンがむせこんだ。
「俺は……、マルゴは……」
頭の中で汚い言葉が踊り狂っている。強い言葉は強い感情を引き起こすから、俺は慎重に、まだまともな言葉を引きずり出す。口を開き、声を絞り出す。
「まだ、まだマルゴは、やり直せるだろう?」
「はっ、はぁ、この状況で? はっ、笑えるな」
ジクロロメタンは息を切らせつつも、本当に笑っている。
「あぁ、最悪だ。最悪だけど、まだ誰も死んでない。命さえあれば、何度だってやり直せる」
「そう、だろうか?」
「俺は……剣でしか、人と話せなかった」
喉がひくりと鳴る。
「でも……でも、ここに来て、変わった。戦う以外のやり方を……たぶん、学んだ。だから――」
「そんなのは、気のせいだ。私たちにとって、コミュニケーションなど、依存対象を、手に入れるための、手段に過ぎない」
隣の部屋はクライマックスを迎えようとしている。それに合わせるようにガーモが忌々しくいななく。
「剣も、言葉も、本質は変わらない。私たちの間にあるのは、依存対象でつながった、利害関係だけだ」
違う、と思いたかったが、それは確信をついていた。ゆえに俺は、意識せずまた彼女の首に手をかけている。ジクロロメタンの頚椎がきしむ。その笑顔が、またしてもうっ血していく。
「……そう、かもしれない」
俺は今一度、鼻から大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐いた。
その拍子に、頭の中でぐちゃぐちゃに絡まっていた言葉が、一本だけほどけた。
俺は、改めて言い直す。
「……いや、かもしれないじゃない。俺が、俺がコミュニケーションだと思っていたのは、ただの独りよがりだった。だけど……」
もしそうだったとしても、俺は変われる。斧だってフォークだって使えたんだ。二度と戦わない、それはおそらく相当に難しい。それでも、やるしかない。
それはマルゴだって、パイロンだって、ジクロロメタンですらそうなはずで、だからこそ、俺は叫ぶ。
「だけど、俺は、お前を殺さないっ!!」
おそらく病院中に響き渡ったであろうその大声に、喘ぎ声が止まる。
それは正義感なんかじゃない。本当は、この卑劣な薬物中毒者を殺したい。この衝動に従えば、きっと気持ちよく眠れる。
それでも俺は、今夜はそれを選ばない。
そうして俺の力が再び緩むと、紫色の唇を歪め、聞き取れないほどの声量でジクロロメタンが言った。
「ほう、賭けるか?」
「ああ! 今夜、お前を殺さなかったら部屋にある薬を全部渡せ。レイル先生の言うことを聞け。集団療法にも参加しろ。ガーモ、聞いたな。それでいいだろっ!?」
「殺したらどうするダッ?」
「殺さない」
「そんなの賭けが――」
「うるさい黙れ。俺は絶対に殺さないんだよっ!!」




