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4-4

 夕食後、ランプ片手に俺は日の暮れた坂道を歩いていく。


 真っ暗な夜道は、灯りがなければ足元がおぼつかない。昼間と違い虫の鳴き声がうるさく、しかもうっすらと霧が出ていて、嫌でもドラゴンと出会ったあの夜を思い出さずにはいられない。


 あのときの俺は、本当におかしかった。霧に濡れた足元を見下ろしながら、今さらそんなことを思う。


 だけど今は違う。今の俺は、俺が病気だってわかってる。剣を前にして自分がどうなるかわからない、ということは少なくともわかっている。


「……過去と向き合うんだ」


 俺は声に出し、確かめるようにつぶやいた。それは勇ましさと言うよりも、不安を抑え込むための言葉だった。


 坂道を二十分ほどかけて歩き、ようやく重症病棟が見えてきた。


 知らぬ間に深くなった霧の中、真っ黒なレンガは闇に紛れ、いつにもまして不気味に見えた。吹きつけてくる海風に鳥肌が立ち、俺はぶるりと身震いした。


 建物に近づくにつれ、霧で上方が隠れるがゆえ、漆黒の壁はどこまでもそびえているかのように見えて、足取りが重くなる。ただ錆びた鉄扉だけがランプの灯りに鈍く輝き、俺はおそるおそるその足元を照らした。


 ランプを左右に揺らし、地面の影を一つひとつ確かめる。


 ――剣は落ちていなかった。


 その瞬間、肩の力がふっと緩んだ気がして、その軽さに、俺はなぜか息を詰めた。


 院長が中に戻したのだろうか? 建物に明かりはなく、院長が中にいるのかどうかもわからない。もし彼に会ったとして、昼間あれほど恐れて逃げ出した相手に、今さらどう切り出すつもりだったのかと、遅れて現実感が押し寄せてくる。


 もはや、帰りたい気持ちが、はっきりと胸をしめていた。


 それでも、


 俺は、いつかクレープがしていたように、ライオンのドアノッカーをつかんだ。


 ダン、と錆びた金具を打ち付ける。


 思った以上に大きな音が夜気に響き、心臓がきゅっとなるが、もう引き返せない。


 ダン、ダン、ダン。


 返事はない。一瞬止まった秋の虫たちが再び鳴きはじめる。試しにドアを押すと、きしんだ音を立てて、扉はあっけなく開いた。


「……っ!」


 昼間ほどではないが、鼻の奥に、あの血の臭いが引っかかった。俺は思わずしゃがみ込み、震える手で床にランプを近づける。


 タイル張りの床に血痕は見当たらない。きれいに拭われている。それでも、息を吸い込むたび、肺の奥に何かが引っかかるような気がした。目に見えないはずのものが、ここには確かに残っている。そんな気がしてならなかった。


 帰った方がいい、頭の中で警報の鐘が鳴り響く。正直、引き返す理由なら、いくらでも思いつくが、


 俺は、一歩、前に出た。


 建物の中は静まり返り、俺の足音だけが不自然に響く。入口近くのテーブルには、空のワインボトルとグラス、タバコの吸い殻の詰まった灰皿。剣はない。建物の隅に積まれた掃除道具や木桶の間にも、それらしき影は見当たらなかった。


 それでも、俺は探すことをやめられなかった。


 ランプの火が揺れるたび、視界の端で何かが動いた気がして、胸の高鳴りだけが増えていく。何も起きない、ということ自体が、ひどく怖かった。


 奥へ進むと、ランプの光が途中で遮られる。


 鉄格子だった。建物を手前と奥に分断するように並び、引き戸になった右端に、大きな南京錠が掛かっている。格子の向こうには、フレームに藁を敷いただけの簡素なベッドが一つ。その縞模様の影を見たとき、理由もなく喉が詰まった。


 誰もいない。院長も、患者も。


 なら、昼間の血は――


 そのとき、背後で気配が動いた。


 俺は反射的にワインボトルを掴み、振り返る。そのまま腕を振りかぶるが、ひやりとした重さに動きが止まった。


 ランプの光に浮かび上がった影が、小さく鳴いた。


「ワン」


 クレープだった。


「……驚かすなよ」


 声に出した途端、張りつめていたものが一気にほどけた。震えが止まり、肺いっぱいに息が入る。


 今日は、ここまでだ。


 ふとそう思って、俺は少しほっとした。剣が見つからなかったことより、クレープにボトルを投げつけなかったことの方が、今の自分にとっては大きい、そう考えずにはいられなかった。


 俺はボトルをテーブルに戻し、建物を出る。扉を閉め、クレープを抱き上げると、その体温が冷えた身体に染みわたった。


 少なくとも、前と同じ逃げ方じゃなかった。


 そう思うと、縮こまっていた背筋が、すっと伸びた。


 いっそ、こんな泥棒じみたことはせず、直接院長に剣を返せと言ったほうがまだマシだ。たった今、ボトルを投げなかった俺なら、前よりは少しはマシな話ができる気がする。


 そう言い聞かせながら、俺は来た道を引き返した。


 帰り道は、行きよりもずっと短く感じた。

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