4-3
俺は、またしても診察室へ逃げ込んだ。チカチカと明滅する視界のなか、見慣れた白衣と聴診器を認めた瞬間、声にならない声が口をついて出た。
「はぁっ、はぁっ、あの、あのっ!」
耳の奥ではいまだに院長の罵声とクレープの吠え声が、濁流のように渦を巻いていた。肺が焼けるように熱かった。膝から滲んだ血と、汗と泥で、俺の服はひどく汚れていた。ドアノブを掴んだまま、俺は喉を鳴らして喘ぐことしかできなかった。
「…………」
レイル先生は、机に肘をついたまま、そんな俺を黙って眺めていた。メガネの奥で輝く金色の瞳が、湖のように静かだった。
「……はぁっ、はぁっ、先生っ、俺っ、俺っ!」
やはり先生はなにも言わぬまま、ゆっくりと椅子から立ち上がる。白衣を翻し、こちらへ歩み寄ってくると、清潔な石鹸の匂いが鼻先をかすめた。
その瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
膝の力が抜け、崩れ落ちそうになった俺の体を、先生の細い腕が支えてくれた。先生はそのまま、泥まみれの俺を、汚れるのも厭わず椅子に座らせた。
「……先生!」
安堵が冷たいしずくとなって背筋を伝った。すると堰を切ったように、言葉が溢れ出した。
血塗れの院長のこと。投げ捨てられた剣のこと。自分が自分でなくなるような、あの底なしの恐怖のこと。
先生は、要領を得ない俺の告白を、一度も遮ることなく聴いてくれた。そして、俺がようやく話し終えて、再び長い呼吸を始めたところで、静かに切り出した。
「やっぱり、タンタルくんは過去と向き合わなくちゃいけないんだと思うよ」
棚から消毒綿の瓶を取り出しながら、彼女は続ける。
「ここに来て、タンタルくんは間違いなく成長した。失敗もしたけど、その度に立ち上がって、戦わないよう努力してきた。それは私が一番よくわかってる」
先生はそう言って笑う。メガネの奥で優しく細められた瞳を見ると、いっそう呼吸が落ち着き、手足に体温が戻ってくる。
けれど、
「院長が言うことも、また正しい」
膝の擦り傷に消毒綿を押し当てられ、ピリッと針で刺すような痛みが走った。俺が小さく身をすくめると、先生は付け加える。
「戦闘狂は治らない。それは事実」
ピンセットにつままれた消毒綿から、オレンジ色の液が垂れる。消毒はひどく染みた。こんな傷、昔ならなんともなかったのに、と俺は思う。
「だからこそ、過去の過ちを繰り返さないために、過去と向き合う必要がある」
「それは、わかっているんですが……」
答えながら、俺は自問する。本当にわかっているのか? 心の奥にある、あの森の街道で、俺はアスタチンと向き合うことができるのか?
頭の中でアスタチンが言う。「そんなことしなくていい」
俺は鼻から大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐く。
頭の中でアスタチンが言う。「黙って剣を振るえばいい」
そうやって固まってしまった俺を見かねてか、傷口にテープを貼り終えたレイル先生は、小さく息を吐いた。彼女は続けて、机の本立てにある聖書の背表紙にそっと手を置いた。
「神は、理不尽だからこそ神なのです」
何気なく発せられたその言葉は、思いのほか俺を揺さぶった。
彼女はそのまま聖書を開き、教会の教えについて話し始める。
「全知全能の神が作ったはずのこの世界は、理不尽なことであふれています。善人が不幸になり、悪人が栄える。それでも神は、決して答えを示しません」
いつもなら聞き流していたはずの話だが、今日は妙に引っかかった。俺は教会が苦手だった。信者なんて、それこそ宗教依存症じゃないかと思っていた。その考えは、今も完全には変わらない。
だけど、
「なぜなら、ちっぽけな人間には、崇高な神の目的を理解できないからです。一見不合理に見えることすら、偉大な神の意志だと受け入れる。それこそ、信仰なのです」
先生が話す神様のことは詳しく知らない。だがその言葉は、俺がかつて戦場で感じていたものと、どこか重なっていた。
戦いもまた、理不尽だった。
奇襲に裏切り、焦土作戦に自殺攻撃、強者が生き残るとは限らず、矢はどこから飛んでくるかわからない。大将を討ち取っても、次の刹那には死ぬことだってある。
だからこそ、戦いは面白かった。これこそ、俺の神だった。
――そう考えた瞬間、俺は自分に驚いた。
こんなふうに戦いを語れるほど、俺はもう落ち着いてしまっているのか、と。
たしかに、呼吸も心拍も整っていた。そして整ってしまったがゆえに、ずっと逃げてきた事実も、はっきり見えてしまう。
そんな神を、戦いを失ってしまった俺が次にすがったのは、ガーモを倒しマルゴを救うことだった。加えて、日々の集団療法や先生の診察、クレープやパイロンの世話、ジクロロメタンの本だった。俺は戦いのかわりに、この島での生活にのめり込んでいた。
もちろん、理不尽なことも多々あった。それこそ、救ったはずのマルゴが救われなかったわけだけど、そんな理不尽にさえ、俺は執着していた。たぶん、それは別の依存だったのだろう。そうすれば、過去を振り返らなくて済むから。何もない未来と向き合うことから逃れられるから。
頭の中でジクロロメタンが言う。「自分の人生を生きろ」
そうだよな、と俺は思った。
「……俺」
言いかけて、言葉が詰まった。別のページを開こうとしていたレイル先生が聖書から顔を上げ、きょとんとした顔をする。
また、逃げるかもしれない。途中で放り出し、結局ここへ戻ってくるかもしれない。
それでも、逃げ続けるよりは――
俺は息を吸い直し、立ち上がった。
「……俺、やってみます。過去、……いや、剣と、向き合おうと思うんです」
声は震えていたが、途中で止まらなかった。
「戦うためじゃなくて……、あれが、俺のすべてじゃないって、ただの道具なんだって、確かめたいんです」
両の拳を、強く握りしめる。
「だから……剣をここに、持って帰る。いや……、触れるくらいなら、やってみたいんです」
正直に言って、怖くてたまらない。鉄扉の前に転がるあの剣を目にした瞬間、また腰が抜けるかもしれない。途中で放り出して、逃げ帰るかもしれない。
だけど、剣だけが、俺と過去とを繋ぐ、もっともはっきりした手がかりでもあった。それを確かめなければならないという気持ちも、たしかにあった。
先生は、じっと俺を見つめたまま何も答えなかった。
けれどその沈黙は、否定ではなかった。




