1-3
すべての枷が外れるやいなや、俺は低い窓から飛び出した。
「待って。まだ説明が……」
などとわめく女の声を背に、絡みつくカーテンを引き剥がし、窓枠を越えてそのまま地面へと転がり落ちる。砂に手をつき前を見ると、そこにはやはり海が広がっていた。
どこだここは?
ちょっとしたビーチを挟んで広がる海は果てしなく、空と水平線とを遮るものは何もなかった。水平線の彼方からまっすぐ伸びたオレンジの光。それがさっきよりわずかに暗く、今が夕刻であることはわかる。だが、それ以外何もわからない。
「逃げちゃダメぇ。って、きゃあっ!」
女の悲鳴が聞こえ、慌てて立ち上がり振り返る。開きっぱなしの窓の向こうで激しい物音がして、女が戸惑った様子でこちらを見ている。ボトルを叩き割り、床一面にガラスをぶちまけてやったとはいえ、女はすぐに追いかけて来るだろう。
とにかく駆け出す。
春とはいえど砂浜は熱く、サラサラと少ない反発につんのめりそうになる。横方向へ視線をずらすと、俺がいたのは横長な建物の一番端らしかった。それは海までせり出す大きな岩棚に半ばめり込むように建てられており、ほとんど絶壁といってよいその岩棚を登ったり回り込んだりするのは難しそうだ。
まずいな。どこへ逃げればいい?
病院と思しきこの建物は砂浜に平行に建っており、平屋で高さこそないものの、相当な横幅である。とりあえず岩棚の反対側に行くしかないが、その先のビジョンが定まらず、足取りに迷いが生じる。どうも体幹が安定しない。おかしい。
そう思った瞬間、俺は思い切りよろめいた。
「くそがっ!!」
やはり体が思うように動かなかった。この感じだと、数日は拘束されていたのだろう。全身の関節がこわばってしまっている。
立ち上がりざまにチラと見ると、手首と足首、ちょうど枷があったところに、リング状にただれた赤い跡ができている。重心を倒し、転がるように前に出ると、顎の下でカチャカチャと音を立てる首輪も腹立たしい。
イラつく。あの女、やっぱ殺すか? いや……殺せねぇのか。
再び殺意が芽生えたちょうどそのとき、横長な建物の終わり、岩棚とちょうど反対の端側に、巨大な風車が建っているのが目に入った。
そして、その奥は森。
あっちだ!
あそこに隠れるしかないと、俺は一気に踏み出した。
そのまま風車を回り込み、森の中へと駆け込むと、一気に視界が暗くなる。裸足の足裏に伝わる感覚もはっきり変わる。土は湿り、森の中は緩やかな坂になっているようで、砂浜以上に走りづらく、俺は焦れた。
「待ってそっちはっ!」
背後から再び聞こえる女の声に、誰が待つかよと俺は斜面を駆け上がる。低木の枝をへし折り、ざらつく根を踏みつけて、ひたすら奥へ。指先がむき出しの岩か何かに引っかかる。が、構わず膝にはずみをつけて、強引に森の奥へと突き進んだ。
ろくに飯を食っていないこともあって、どんどん息が上がってくる。
進めば進むほど木々は密に、傾斜は急になって、何かにつかまらないと立っていられなくなってくる。女の声が聞こえなくなったかわりに、俺自身がたてる物音と呼吸音のせいで、どれくらい奥に来たのか、どちらへ進んでいるのかすら、わからなくなってしまう。
とめどなく汗が流れ出るが、もはやガウンは汗を吸わず、砂まじりでじっとりと肌に張り付き気持ちが悪い。しかも布を前で合わせ細い腰紐を巻きつけただけだから、支えのない股間がぶらぶら惨めでしょうがなかった。
それよりなにより、首輪がウザかった。
どういう理屈か、金属製のそれはますます喉仏に食い込み、俺の首を絞めつけた。これも魔法か? 理屈がよくわからず、もどかしい。溶接でもされているのか取っ掛かりがどこにもなく、まるで外せそうになかった。
あの女、これが外れたら速攻で殺してやる!
そう思ったところで、いきなり目の前が開けた。
「なんだよこれ……」
俺は面食らった。
鬱蒼とした木々が突然終わり、かわりに現れたのは黄昏色に染められた空と地面だった。三十歩四方ほどが平らに整地されており、そんなささやかな空間に、不揃いな大きさの石が規則的に並べられているのだった。
……墓、だろうか?
死体には見飽きている。だが、石の並びの向こう側に、またしても青黒い水平線が見えた。
嫌な予感を振り払うように、俺は一番大きな、ほとんど岩にしか見えない墓石の上によじ登った。
呼吸を整え、周囲を見渡す。
ここは森が途切れた高みにぽつんと残された墓所で、背後はすぐ断崖だ。立てこもるには、あまりに悪い。
正面、沈みかけの太陽の前に、あのレンガ造りの風車が見える。
そこから視線を右にずらす。
風車の手前には、舟のない波止場が短く突き出している。その脇に、俺がさっきまでいた建物と砂浜。建物の裏には、畑や鶏舎らしき影が並んでいる。
さらに目を送ると、砂浜は途中で途切れ、切り立った岩棚に変わる。岩棚は弧を描くように続き、やがて矢じりみたいに細く尖って、海へと突き出した崖になる。その先端に、黒っぽい小さな建物がひとつ立っている。
そこから先はもう陸が続いていない。岩棚はぷっつり途切れ、そのまま海へ落ちている。その切れ目の少し先からは森が始まり、海際まで険しく下りている。木と木の隙間から、白い波がちらちら見えるだけで、抜け道になりそうな場所はない。
逆だ。風車の左はどうだ。
必死に首を巡らせるが、結果は同じだった。ずっと深い森が続き、その先はすべて海にのまれていた。
「……嘘だろ」
そこでようやく、嫌でも理解した。
ここは島だ。
しかも、想像以上に小さい。
やられた、と思った。
俺が連れてこられたのは、絶海の孤島だったのだ。




