4-2
翌日も、俺は帰らなかった。
そのまま一週間が経ち、二週間が経った。三週間が経っても、マルゴは部屋から出てこなかった。
気づくと、秋になっていた。
夜になるとかなり冷え込み、温かいスープを飲むと、体は温まるのに、気持ちは何も変わらなかった。それでも、レイル先生は俺のスプーンの使い方を褒めてくれる。テーブルマナーだけなら一流レストランでも通用すると励ましてくれる。
俺にはもう、先生だけが頼りだった。
先生が言う。「大丈夫だよ」
俺は答える。「……はい」
本当にそうだろうか? わからない。
依然として夜は眠れなかった。眠れないだけならともかく、日中たまに意識を失っているようなことがあって、怖かった。
道具は何事もなく普通に使えた。だけど斧を使うと、木が切れる。ナイフを使うと、芋の皮を剥ける。そんな当たり前なことが怖かった。ホウキがあれば、人を殺せる。文字を書くペンだって、先端は鋭く尖っている。もしそれを使っている時に、あの黒い闇に飲まれたらどうなるだろう。そう思うと怖くて、いっそう眠れなくなった。
そんな悪循環に陥っていたある日のことだった。
なぜだか俺は、重症病棟の前に立っていた。
道具を使ったほうが、トレーニングは効率的で、仕事だってたちまち終わる。さらなる仕事をねだるとレイル先生に怒られるから、俺はひたすら島をジョギングしていた。院長にだけは会いたくないから、ここには近づかないようにしていたのだが、その日は行ってから気がついた。相当疲れていたのだろう。
ビュウビュウと吹き上がってくる潮風の中、昼下がりの日差しを受けて建つその建物は相変わらず黒くそして静かで、中の様子がまるでわからない。
振り返って軽症病棟のほうを見下ろすと、波止場に舟が泊まっている。ということは、院長が重症病棟の中に居るのかもしれない。
あの麦畑の一件以来、俺は院長と会っていなかった。退院しかけたときに、挨拶すらなかったのは、まぁいい。けどあんな状態のマルゴを放っておいて、あいつは一体何をしてるんだ? 今は様子を見るしかないとレイル先生も言うけれど、マルゴは実質ただ放置されているわけで、食事もろくにとってないだろうし、医者なんだからなんとかしてやれよ、とムカムカしてくる。
怒りに任せ、錆びた鉄扉を蹴りつけようとして、はっとする。
首輪を意識し、鼻から大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐く。
とりあえず落ち着け。
そうだ、この前収穫したリンゴでジャムを作ろう。鶏舎の補修もしなくちゃいけない。マルゴのためにセーターを編んでやってもいい。釣りだって、穴掘りだってできる。道具が使えるのだから、前以上にできることがあるはずだ。
肺から取り込まれ、全身を循環する冷たい空気に、俺はクールダウンする。崖下からの潮風が、俺の頭を覚ましてくれる。
落ち着いてくると、うら寂しい重症病棟のボロボロになった黒煉瓦がさっき以上に不気味に見えた。吹き上がる潮風もいっそう強くなってきて、寒気がした。
帰ろう、そう思ったところで突然、ゴウンッ、と重い音がして鉄扉が開いた。内開きに開かれた扉の隙間から、生臭い臭気が一気に溢れ出す。
差し込んだ陽の光に、暗がりの奥に立つ人物が浮かび上がる。
「ひっ……」
それは、院長だった。彼は凄まじいほどに血塗れで、俺は腰を抜かした。
白衣はおろか、サンダルもズボンも、褐色の皮膚も白髪交じりの髪も、赤黒く色づいていた。
「なんでまだ退院してないんだ?」
息も乱さず、彼は言った。
「あ、あっ……」
俺は口をパクパクさせるだけで精一杯で、ろくに答えることができなかった。
みっともなくへたり込む俺を見下ろし、院長が続ける。
「眠れないんだろう? ふとした瞬間に自分が自分でなくなるんじゃないかと怖いんだろう?」
「……なんで?」
蚊の鳴くような声で、俺は答えた。そのとおりだった。
院長が一歩前に踏み出すと、濃厚な血の匂いが一層強く香る。血はまだ乾ききっていないようで、白衣には肉片のようなものまで張り付いている。
「なんでもなにも、俺は医者だぞ。お前が考えることなんて全部わかる」
「だったらなんでマルゴをっ!」
「はっ。この期におよんでまだ人の心配か? 自分の心配をしろ」
「だ、黙れっ。お前が医者なわけあるか!」
「はははっ。わかったよ。なら……」
そう言って院長は建物の中、扉の陰に消えた。開け放たれた扉の向こうは薄暗く、奥の方はよく見えなかったが、白いタイルが敷き詰められたその内部、壁か床はおろか、天井にまで大量の血が飛び散っているのだけははっきり見えた。
しばらくして、再び現れた院長は俺の剣を持っていた。
ぞわり、と体中の皮膚が粟立った。
今度はなぜかクレープも一緒だった。剣を持つ院長に、鼻を鳴らしまとわりつくクレープもまた、院長同様血だらけで、俺はなおさら混乱する。
「戦えよ」
刹那、重量感のある鈍い音とともに土がはねた。俺の足元に、かつて麦畑で蹴り飛ばしたはずのロングソードが粗雑に転がされる。
「え?」
「俺たちは喋るより、剣を交えたほうが通じ合えるだろう?」
「なんでなんでっ!」
声を出すと、歯がガチガチと鳴った。瞬きをしたとたん、まぶたの裏に赤い髪がフラッシュバックして、もう目を閉じることができなくなった。とはいえ剣を直視することもできず、俺は尻餅をついたまま、微動だにできなくなってしまう。
「だから、なんで、じゃないだろ?」
院長が笑う。
「戦いたいんだろ? 賭博依存症者を治療せず放置する俺を殺したいんだろ? わざわざ錆びないようしまっておいてやったんだ。さぁ取れよ」
馴染み深い鞘の装飾が日光の下で輝いている。クレープがぶんぶんと尻尾を振って、血の滴が俺の頬にかかる。自分の呼吸が浅く、早くなるのがわかる。先生に学んだ呼吸を試みようとするも、
吹き荒れる潮風の隙間から、開戦のラッパの音が聞こえてくる。
「もしかして剣は嫌か? 嫌なら斧でも鍬でも持ってきてやるぞ。それとも素手か?」
「……嫌だ」
「そんなわけあるか。お前の目がそう言ってんだ。この血を見て興奮している。瞳孔が開いて輝いて、俺を狩ることを考えてる獣の目だ」
「違う」
「なぁ、そのはち切れそうな筋肉。トレーニングじゃ飽き飽きなんだろ? 何をしてても楽しくなくて、いい加減、自分には戦いしかないとわかってきたんだろ?」
「違う!」
「おいおい。風車の下敷きになったお前がバレバレの嘘をついた日以来、俺はお前と戦うのをずっと、ずうっと待ってるんだ。お前を治せば、お前と戦えるんじゃなかったのか? 俺の手術は無駄だったのか?」
「違う違う違うっ!!」
ありったけの力を振り絞って俺は立ち上がり、駆け出した。
坂の途中で小石につまずき、頭から転倒する。目の中で星が瞬き、全身がきしみを上げる。慌てて体勢を立て直そうとするが、足がもつれる。両膝の皮膚ががっつりえぐれているのがわかる。だけど構わず、俺はほとんど転がり落ちるように斜面を駆け下りる。クレープが激しく吠えたてる声を背に、俺は麦に比べわびしく育つ豆の畑を、軽症病棟めがけて走り抜けた。
「何をしようが、お前は変わらない」
クレープの鳴き声にまじって、坂の上から院長の野太い声が轟いた。
「お前はどうしようもない戦闘狂だ」
その言葉は、俺の胸に矢のように突き刺さった。




