4-1
勇ましく啖呵を切った興奮もそう長くは続かない。
夕食はまったく喉を通らなかった。
退院するはずだった俺が戻ってきたのだ。パイロンもクレープもどこかよそよそしく、レイル先生との会話も長続きしなかった。マルゴが食事に参加することもなく、パンもスープもろくに味がしなかった。
皆が早々に部屋に帰ってしまい、俺もしぶしぶ部屋に戻る。マルゴの部屋、その硬く閉ざされた扉の前を足早に過ぎ去り、俺は自室の扉を開けた。
きしんだ音を立てて扉が開くと、ベッドに腰掛けたジクロロメタンが怪訝そうな顔でこちらを見た。俺は何か言おうとした。だがそれより先に、ジクロロメタンは棚に置かれた錠剤の入ったガラス瓶をつかみ、ベッドに潜り込んだ。
そんないつもと同じ仕草に、俺はなぜか少しほっとして、すっかり片付けられたベッドに戻り、ランプを消して寝ようとした。
だけど体が重く息苦しく、まるで眠れそうになかった。慣れたはずのベッドは昨日よりも柔く、少し目を閉じただけで、またあのどす黒い感情に飲みこまれそうになってしまうのだ。
ものの数分で、俺は再びランプを灯した。起き上がって背筋を伸ばし、鼻から大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐く。するとわずかばかり落ち着くが、トレーニングをしたり荷物を開いて本を取り出すような気力は湧かない。なので俺はベッド脇でうなだれたまま、ぼんやりと床の汚れを眺め続けた。
俺はガーモを消したことが、無意味だったんじゃないかと後悔していた。いや、あれは災厄をもたらす邪神だから、いないほうがいいに決まってる。だけど、マルゴにとって真の手助けにはならなかったんじゃないか、そう思わざるを得なかった。
せめて俺は、彼女がギャンブルをしていたことをレイル先生に伝えるべきだったのではなかろうか?
そんなことを考えていると、ジクロロメタンが話しかけてくる。
「いつまで起きてるんだ」
それは少女になってもあまり変わらぬ抑揚のない声で、俺は目だけをその声の主へと向ける。
「おい、聞いているのか?」
おぼろげなランプの灯りのなかに、小さな瓶を持った少女が立っていた。少女は袖の余った服を着ていて、瓶の中には紫色の錠剤が入っていた。
「これでも飲んで、早く寝ろ」
彼が、いや彼女が瓶を掲げると、カラカラと乾いた音がして、俺は答えた。
「いらない」
「なら、またホールで寝ろ」
「嫌だ。先生にベッドで寝ろと言われてるんだ。何もしてないんだから、別にいいだろ」
「何もしてない、だと? お前が居ると気持ちよく酔えないんだよ」
そう言って、ジクロロメタンは大きなため息をついた。俺は、知るか、と思って、あえて無視を決め込んだ。
再び鼻から大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐く。
だけど、もはや何も変わらず、なにか難しい単語を思い浮かべようとする。しかし、M・A・R・G・O。その五文字しか浮かばず、余計に胸がかき乱される。
「車椅子の女のことだろう? あいつを放っては帰れない、などと考えているのだろう?」
そんな俺の心を読み取ったかのように、ジクロロメタンが尋ねてくる。
「お前には関係ない!」
俺は叫んだ。それは思った以上の大声で、「関係ない」そんなこだまが二重、三重に反響し、静かになったところでジクロロメタンがぼそりと答えた。
「お前にも関係ないだろう。あの女はまともになれなかった。それだけのことだ」
「そうじゃない」
「そんなことがなぜわかる? お前はあの女の主治医か?」
「違う、けど――」
「お前はあの女の何を知っている? 本名は? 年齢は? 出身地はどこだ? あの女の本当の過去を知っているのか?」
「でも――」
「まぁ、知っていたとて関係ない。お前はお前だ。だからそんな首輪は外して、さっさと帰れ。自分の人生を生きろ」
「だから俺は――」
「私は五十年前、エリクサーに手を出した」
俺の言葉を遮り、ジクロロメタンは言った。五十年――その年月がもつ重みは、俺の口を閉じさせるのに十分だった。
「当時、私は王都で水魔法の研究をしていた。こう見えても優秀でな。新しい魔法をいくつも生み出し、若くしてアカデミーのトップに成り上がった」
少女の手元、瓶の中で錠剤が揺れる。その音に俺が視線を少し落とすと、ジクロロメタンがつぶやくように話を続ける。
「もちろん、名声にはプレッシャーが付きまとう。理論はすぐに消費され、次を求められる。競合の妬みや嫌がらせもしょっちゅうだ。その程度ならまだいい。だが、ある日、私よりずっと才のある男が現れた。努力では到底届かぬ天才だ」
そこで突然、ジクロロメタンは薄い唇を瓶の口を押し付けた。はらり、と緑の髪が流れ、紫色の中身が一気に口の中へと注ぎ込まれると、彼女は棚に置かれた魔鉱油のボトルを手に取った。
「んっ、んっ、……っぷ。だから」
突っ立ったまま、彼女は錠剤を魔鉱油で強引に流し込む。嫌な顔を隠さぬ俺に、彼女は続ける。
「研究用の試薬に手を出した。奇跡の霊薬、お前だって聞いたことがあるだろう?」
「……なら、なんだ?」
エリクサー――剣士の間でも噂だけは回っていた。どんな怪我や病をも治す夢の薬だ。だが、俺みたいな下っ端に縁のある代物じゃなかった。
「あれの効能は、身体的な回復作用だけではない。飲むと不安が消え、気分は高揚し、とめどなくアイデアが湧いてくる」
「……で?」
「しかし、そんな魔薬にも副作用がある。脱抑制に、食欲や性欲の亢進。枚挙に暇はないが、やっかいなのはもちろん、耐性と依存性だ」
「酒、……みたいなものか?」
「ああ。その強力版だ。エリクサーの身体への効果は不可逆だが、向精神作用には限界がある。一時的に解消した不安もすぐに戻り、それを癒やすため、より多くのエリクサーが必要となる。だが、あれは王とて一月と続けられない高級品だ。すぐに資産はなくなり、耐えきれぬ渇望に、私は他の薬物にも手を出した」
「…………」
「苦痛から逃れるために、というより、この世から逃れるために、といつしか目的が変わっていた。殺魔物剤やら瘴気ガスやら、色々と試したが、いまやもう、あらゆる薬に耐性ができてしまって、死ぬことすらままならない」
ジクロロメタンが言葉を重ねるたび、彼女の持った魔鉱油のボトルから、重たい雫が一滴、また一滴と床に落ちていく。
「三十年前、私はここができたときからここにいる。ここは元々、私の一族が私を幽閉するため作ったものだ。当時は院長がまだ若造だった。建物もピカピカでな。適当な理由で追いやられるまでは、あの女医の部屋を個室として使っていた」
三十年。それは、俺が生まれる前どころの話じゃなかった。想像すらできないスケールに、胸がますます暗くなってくる。もう聞きたくない、そう思うが、耳を塞ぐほどの勇気もない。
「何百人もの患者がここに来るのを、そして出ていくのを、死ぬのを見た。出ていけるやつは早い。だがそうでない奴は、死ぬまで出られない。あの火炎使いがやってきたのが十五年前、車椅子の女が五年前だ。一年を超えると、たいてい無理だ」
「でも、……でも、マルゴは二年だと?」
「五年だ。嘘をついているんだよ。依存症者の言うことを信じるな。お前だってそうだろう? もう戦いませんと言ってから、何度やらかした?」
首輪が、ずんと重くなった気がした。
「だけど、お前なら間に合う。まだまともになれる余地がある。頭はともかく、身体は丈夫だろうから、働き口くらいあるだろう。戦乱とは無縁の田舎で、静かに暮らせ。ここに長くいると、帰ることができなくなるぞ」
俺は何か答えようとする。答えなくちゃいけないと思う。なのに言葉は喉で詰まって、言葉にはならなかった。ただ、時間だけが無駄に過ぎていった。
するとジクロロメタンはつかつかと自らのベッドに戻り、ボトルのかわりに、サイドテーブルに置かれた大きな小包を取り上げた。
「これを見ろ」
彼女はその包みをビリビリと破りながら続ける。
「その才能ある天才が、いまだに私を慕っていてな。三十年経った今でも、こうやって研究資料を送ってくれるんだ。ここには税関なんてない。研究のため必要だといえば、魔石だろうが殺竜剤だろうが、なんでもござれだ」
そう言って、小包から黒い粉の詰まった小瓶を取り出したジクロロメタンの顔が不気味に歪んだ。
「ま、こっちは私には必要ないがな……」
俺が黙り続けていると、彼女は続けて包みから取り出した一冊の本を、荒っぽく俺のベッドへと放り投げた。
それは、見慣れた装丁の本だった。手に取ると、表紙には『王立水魔法雑誌九月号』と書いてあった。
「とにかく、それでも読んでさっさと寝ろ。日が明けたら、すぐに出ていけ。わかったな」
言うがいなや、ジクロロメタンは自分のランプを消した。彼女が小瓶を手に布団を頭からかぶると、あとはもう沈黙だった。
しばらくして、俺は本を開いた。
最初に比べると、その本はかなり読めるようになっていた。俺は王都の水魔法研究者たちが書き上げた最新の論文を、「粘性式」「無次元量」「波岨度」などといった難解な専門用語や入り組んだ図表の意図を、なんとなくだけど理解できるようになっていた。
ゆえにやはり眠れなかったが、本って実は「道具」じゃないかと、ふいに思った。
それは当たり前といえば当たり前で、分厚い本を使ってジクロロメタンを殺すチャンスなんて幾度となくあった。
なんだ、別に俺は道具を使えるんだ。
そう思って瞬きをしたとき、まぶたの裏がひりついた。いつの間にか、ずいぶん長いあいだ、目を閉じていなかったらしい。
窓の外が、わずかに白み始めていた。




