3-17
「先生! 先生、俺っ、俺はっ……」
診察室に入ったはいいが、喉の奥が震えて言葉が見つからない。ドアの前で立ちつくし、必死に言葉を探す俺を、レイル先生は椅子に腰掛けたままで黙ってみていた。
彼女はそうやってしばらくじっと俺を見つめたあと、一度足を組み替え、唇に指を当ててこう言った。
「……あぁ。キスするって約束だったよね。すっかり忘れてた」
「へ……?」
あまりに場違いな言葉に、俺の思考が止まった。見れば、先生は白衣のボタンに手をかけている。涙でにじむ視界のなか、はだけた襟元から覗く肌に、俺はあわてて声を張り上げた。
「そ、そうじゃないですっ! 何やってるんですか!」
「あら、そうなの?」
「はい。ていうか、なんで、なんで脱ごうとするんですか、こんな時に……」
そうやって慌てて抗議するうちに、両肩にのしかかる不安が、ほんの一瞬だけ緩んだ気がした。それが先生の冗談だと、ようやく気づいたからだった。わずかに息ができるようになって、俺は促されるがまま椅子に腰掛けた。
「タンタルくん。ゆっくり深呼吸して」
言われるがまま、俺は、鼻から大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐く。
何度も、何度も、鼻から大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐く。
そうして、ようやく足の裏に床の感触が戻ってきたような気がした。最後に大きく息を吸って、俺は言う。
「……キスのかわりに、入院を続けさせてもらえませんか?」
「それは別に構わない。ここは患者の自主性に任せられているから」
「それと、それと、……また、俺に首輪をしてください」
「もしかして、そういう趣味?」
「い、いや、そ、そういう趣味じゃなくてっ、そうじゃなきゃ不安なんです。ひとりになったら、俺、何しでかすかわからないんですっ」
呂律がうまく回らず、息継ぎを挟んで俺は続ける。
「さっき、気づいたんです。島から出ても、俺には何もないって。だからっ……ここで、もっと働かせてくださいっ!」
「…………しょうがないなぁ」
先生はそう言うと、外しかけた白衣のボタンから手を離した。続けて机の引き出しからあの首輪を取り出すと、立ち上がり、俺の首に優しく巻き付けた。
カチリ、と首の後で音がして、数時間ぶりの感覚が戻ってくる。その金属の無機質な肌触りは冷たいはずなのに、どこか温かく感じた。
「鍵はかけない。タンタルくんが外したいときに外せばいい」
「ありがとうございます」
「まだ、病院にいてもいい」
そう、レイル先生は言った。カーテン越しの淡い光が、メガネの奥の金色の瞳に、かすかに反射していた。
彼女は再び椅子に腰掛け、付け加える。
「でもねタンタルくん。入院を続けたかったら、もう前みたいに無理しちゃダメ。木を伐るときは斧を使うこと。フォークやスプーンだってきちんと使うこと。次また犬食いしたら強制退院。わかった?」
「わかりました」
と、俺は答えた。もう一度鼻から大きく息を吸って、吐いて、俺は続けた。
「キスは俺が本当に退院するときにしてください」




