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3-16

 一睡もできぬまま夜が明けた。


「おめでとう」


 その言葉が、少し遅れて意味を結んだ。


 朝食後の集団療法(ミーティング)で、レイル先生は俺の首から首輪を外してくれた。数ヶ月間、肌の一部となっていた銀色の冷たさがあっけなく消える。それはすっかり俺の一部となっていて、解放感というよりも、妙な居心地の悪さを覚えた。実際、その鏡のような曲面に映った俺は、首元だけがきれいに日焼けしておらず、見た目としても気持ち悪かった。


 かわりに退院祝いのドラゴンのメダルをかけてもらい、俺は隣を見た。


 マルゴの肩から、あの忌々しいガーモの姿が消えていた。彼女の首にもメダルがかけられていたが、なぜか一度も俺と目を合わせようとはせず、深く顔を伏せていた。


 盛大な拍手に包まれ、俺たちは昼食後に島を出ることになった。


 荷造りのため、最後になる自室へ戻る。ジクロロメタンは、頭まで布団を被り、芋虫のように丸まっていた。挨拶をすると、布団の隙間から細い手が力なく上がった。


「……もう、帰って来るなよ」


 そう言う彼、いや彼女の声は、いつもよりもわずかに高く、軽やかに聞こえた。


 俺の荷物なんて、数冊の本とメダル、予備の服くらいだ。数分で荷造りを終えた俺はパイロンに辞書を返し、マルゴの部屋を訪ねた。


 だが、ノックをしても返事はない。


 不審に思い扉を開けると、彼女は部屋の真ん中で車椅子に座り、背を向けたまま固まっていた。


 初めて来たときは何もなかったはずの部屋が、今は物で溢れていた。棚に入りきらず、床に散らばった服やアクセサリー。


 これを小さなボートに全部乗せるのは無理なんじゃ? そんなことを思いながら、


「マルゴ、手伝おうか」


 と声をかけたが、返ってきたのは小さな呟きだった。


「やっぱり無理だよ……ボクは、ここから出られない」


「何を言ってるんだ。ガーモはいなくなった。もうギャンブルせずに暮らせるだろう?」


「それは、そう。……だけど、そうじゃないんだ! だからキミはひとりで行って。ボクのことはもう忘れて!」


「おいおい、どうしたんだよ?」


「来ないでよっ!!」


 マルゴが語気を荒げる理由がわからず、俺は床に散らばった荷物を踏み越え歩み寄った。足元の服を蹴散らし、車椅子の脇へ回り込む。逃げるように背を向ける彼女の正面に膝をつき、俺は顔を上げる。


 見上げたマルゴの顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃに汚れていた。


「キミは、ボクがずっと賭けてたことに気づいてた。……そうだよね?」


 ドクン、と心臓が鳴った。肯定も否定もできずにいる俺に、彼女は言葉をぶつける。


「先生に黙っててくれたのは、ボクを信じてくれたからじゃない。それは、キミが強かったからだ。強すぎたからだ。だけど、キミが賭けに勝ったせいで、ボクは逃げ場を失った……」


「それは……」


「ガーモがいなくなっても、この世からギャンブルはなくならないんだ。島の外にはカジノがある。サイコロが、競馬が、相場がある。最悪、人が二人いればギャンブルはできる。ガーモがいなくても、ボクの中の衝動は消えてないんだ」


「でも……」


「でも、キミは戦わなかった。キミの戦闘狂(びょうき)は治ったんだ。だけど、だけどボクは……」


 彼女は両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくった。指の隙間からこぼれ落ちた涙が、グレーのフリルスカートに黒い斑点を作っていく。その姿が痛ましく、俺が触れようとすると、彼女は狂ったように叫んだ。


「出てってよ!」


 力強く手を振り払われ、戸惑う俺に彼女は続ける。


「早く出てって! キミを見てると、自分がどれだけクズか突きつけられて、死にたくなるんだよ!!」


 甲高い声が俺の鼓膜を穿ち、視界がじわりと滲んだ。


 何か言わなければ、そう思う。だけど喉の奥が詰まり、息がうまく通らない。そもそも謝るべきなのか、それとも否定すべきなのか、何を言えばいいのかわからない。


 何かすればするほど、余計に彼女を傷つけてしまう気がした。


 なので、俺は逃げるように、部屋を後にした。


 廊下に立ち尽くすと、開け放たれた窓から湿った潮風が吹き込んできた。翻るカーテン越し、砂浜の向こうには、曇天と黒い海が無限に広がっている。


 胸の奥が、すとんと抜け落ちたみたいだった。


 肺の底まで冷気が入り込み、急に呼吸の仕方がわからなくなる。首輪のあったあたりがぞくりと疼き、何もついていないはずの喉元を、無性に掻きむしりたくなってくる。


 ……これから、どうすればいい?


 マルゴと一緒に島を出る。その一点だけを「未来」と呼んで、俺は今日まで耐えてきた。だが、その光が消えた瞬間、足元には底なしの虚無が口を開けていた。


 よく考えれば、俺には何もなかった。それを、今日まで無理やり考えないようにしていた。俺には帰り着く故郷も、頼れる身内も、過去の記憶すらろくにないのだ。


 剣がなくても生きていける。みんながそう言ったし、俺もそう信じようとした。だが、武器を持たない俺の中身は、結局のところ空っぽだった。


 何者でもない俺が、この広い世界に放り出され、一体何になれる。病院(ここ)にいる間は、患者という役割があった。先生やみんなに手伝ってもらえば、それでよかった。けれど、外に出ればもう、誰も俺を助けてはくれない。


 頭の中で、ドロリとした声が響いた。「お前は孤独だ」


 懐かしさすらあるその声は続ける。「誰もお前を認めない。二度とメダルはもらえない」


 俺は耳を塞ぐ。まぶたを閉じる。


 だけど、


 あぁ、またあの街道だ。


 馬車の下から赤い髪が見え隠れする。どうやっても、あのしゃがれ声は止まらない。「お前の居場所は戦場だけ。お前を認めてやれるのは俺だけだ」


 めまいがして、動悸が高まり、体がガタガタと震え始める。


 どす黒い感情がせり上がり、喉を塞いで、俺は言いようのない閉塞感に襲われる。これを振り払うためには――


 アスタチンが続く言葉を発する前に、俺は駆け出した。


 廊下を走り抜け、誰もいないホールを抜ける。ノックもせずに扉を押し開け、俺は診察室に転がり込んだ。

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