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3-15

 それは八十九日目のことだった。


 俺は先週ジクロロメタンからもらった『渦潮魔法の安定化』を棚に置くと、ベッドに仰向けに寝転がった。これはひときわ難しい本で、単語自体はなんとか読めたが、文章の意味を理解することはできなかった。やたらと複雑でスタイリッシュな図表も、それ自体が魔法陣みたいだった。


 あと一日か、と俺は思う。


 柔らかいベッドにも、もう慣れた。魔鉱油ランプの灯りに揺れるこの天井も、あともう一日だった。


「あのさ」


 それゆえか、妙に頭が冴えて、俺は寝転んだままジクロロメタンに話しかける。


「『戦闘狂』って、言い方がよくないと思うんだよね」


「…………」


「『狂戦士』とか『狂犬』とかもそうだけど、なんかちょっとかっこいいじゃん。なら別によくね、って思っちゃうっていうか」


「…………」


「だから、もっとダサくて恥ずかしい呼び方にしたほうがいいと思うんだ。『すぐ殴る病』、いや……、『すぐ殴りマン』みたいな?」


「…………」


「これなら、なりたいって奴もいなくなるだろ。どうだ?」


「…………」


 当たり前のように無視された。


 無視されたというより、ジクロロメタンから、まるっきりリアクションがなかった。寝ているのか、と思いきや寝息すら聞こえなかった。


 聞こえるのは、窓の外で蠢く虫の声だけだ。夏のピークは過ぎて、秋が来ようとしていた。


 そのあまりの静けさに、俺はベッドから跳ね起きた。


 ジクロロメタンを見やると、鮮やかな緑髪、枕上の後頭部にはやはり一切の動きがなく、嫌な予感を覚えた俺は彼のベッドを回り込んだ。


「なっ!」


 予感は的中した。


 ジクロロメタンは本当に息をしていなかった。


 彼は白目をむいて、鼻の穴からは血が流れていた。薄い胸は完全に静止して、まったく上下していない。そばの机には白い粉が散乱し、チューブ状に丸められた本のページの切れ端が転がっている。


 考える前に体が動き、俺はベッドに飛び乗った。ジクロロメタンの体を仰向けに転がし、シャツを剥ぎ、胸に耳を当てる。


 心臓も止まっている。が、体温は冷え切ってはいない。


「くそっ!」


 まだ間に合うはずだと、間髪入れず、俺はジクロロメタンの胸の真ん中を強く押す。肘を伸ばし、両手を重ねて体重をかける。


 一回、二回、三回……


 と、軍歌のテンポで三十回繰り返しても反応はない。


 なので俺は片手で彼の額を押さえ、もう片方の手で顎先を持ち上げる。俺の口で彼の口を塞ぎ、息を吹き込む。


 一回、二回。


 依然として反応はなく、心臓マッサージを再開する。正直、これが正しい手順なのかどうかはわからない。蘇生法は軍で習ったが、戦場では一度も使わなかった。雷魔法や即死魔法を食らうやつなんて、生き返ったところでまた死ぬだけだと思っていた。だけど今は――


 十回、二十回……


 あるところで押し込む抵抗が急に軽くなった。一回ごとに手首を介し肩まで妙な軋みが伝わってくる。薄い胸の奥で何かが軋み、ひしゃげるような嫌な感触があったが、それが何なのか考える余裕はなかった。


 再び人工呼吸。


 一回。胸郭が大きく膨らむ。二回。俺の息がなければそれはすぐに萎んでしまう。


 かまわず心臓マッサージに戻ったところで突然、


「……!!」


 小さな体がびくびくと痙攣した。そして、押し込んだ反発が、わずかにずれて返ってくる。まるで胸の中身だけが、別の形へとずれていくかのような、言葉にできない奇妙な感覚。それに手応えを感じた俺は、両手にいっそう力を込める。


「……、……、……、……ッ!!」


 次の瞬間――


 ジクロロメタンは弓なりになり、喉の奥から噴水のように真っ赤な血を噴き出した。


「うっ……!」


 血しぶきが俺の顔面を直撃する。反射的に目を閉じるも、彼の胸に押し当てた両手にわずかな温もりを感じ、すぐにまた目を見開いた。


 ドク、ドク、と。


 手のひらの裏で、命が脈打ち、俺は鉄の味がする生唾を飲みこんだ。


 何度もむせ返るように血を吐きながら、ジクロロメタンは体を震わせ、数十秒かけてゆっくりと目を開けた。


 焦点の合わない視線が宙をさまよい、空気を探すように浅く短く息を吸う。


 次いで、覆いかぶさるような俺の影に彼は一瞬ギョッとしたが、ほどなく事態を察したのか、吐き捨てるようにつぶやいた。


「……やはり死ねなかったか」


 熱く少し粘り気のある液体が、俺の髪や顔、服を汚していた。それはとても懐かしく、夢に見るほど求めていた感覚だったが、久々に味わってみると、気持ちよくもなんともなく、ただただ不快なだけだった。


 かわりに、俺の目から涙がこぼれた。


「……よかった」


 声が、思った以上に震えていた。


「あの夜、お前から本をもらわなかったら俺はここまで来れなかった。だからお前も死ぬな。……頼むっ!」


 それは本心だった。


 戦うこと以外、何も知らなかった俺に現在(いま)を積み重ねることを教えてくれたのはこいつだった。今、返り血を浴びても狂わずにいられるのは、ジクロロメタンのおかげだった。


「だから、……死ぬなよ」


 俺がそう繰り返すと、ジクロロメタンは血に濡れた口元でかすかに笑い、視線を天井へと逃がした。


「……お前なら、本当に退院できるのかもしれないな」


「あぁ。お前だってできるよ」


「いや、私はダメだ。……もう、私のことは忘れてくれ」


「そんなこと言うなよ。退院したら手紙を書くから。絶対に書くから」


「いや、いい。それより……」


「なに?」


「どうやら私は、ずいぶん妙な姿になっているようだな」


「へ?」


 そう言われて初めて、蘇生途中に感じたあの違和感の正体に気がついた。あの異様な軋みや感覚は、今になって思い返すと、ジクロロメタンの内部で()()が生じていたことの表れだったのだ。


 俺は、鮮やかな緑髪をした少女に馬乗りになっていた。


 ジクロロメタンは数分前よりも明らかに小さく、全体的に丸みを帯びていた。肩幅がいっそう縮まり、細い首が更に細くなって、なにより俺の両手が柔らかく、ささやかな盛り上がりの上にかぶさっていた。


「ご、ごめんっ」


 わけもわからず、俺はベッドから飛び退いた。


 ジクロロメタンは再びため息をつくと、濡れたベッドから起き上がることなくつぶやいた。


「偽物をつかまされた……」


 彼は天井を仰ぎ見たまま言葉を継いだ。


「どうやら私が吸ったのは、性転換薬だったみたいだな」

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