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3-12

 その日をもって、俺たちの連続記録はストップした。


 最終的には踏みとどまれたのだからいいのでは、というレイル先生を説き伏せ、首輪の設定をリセットしてもらった。俺は不退転の覚悟を固め、その翌日が俺とマルゴの新たな誕生日になった。


 そこから二週間、俺は自分を追い込み続けた。


 時折ちらつくあの不吉な街道を振り払うため、トレーニングの負荷を極限まで上げた。爪をインクにひたして書いた手紙をパイロンに見てもらったり、器具を使わない料理で先生を手伝ったりもした。クレープとも仲直りし、集団療法(ミーティング)で聞いた教会の教えを実践してみたり、とにかく色々した。


 そうしているうちに、麦畑は日増しにその輝きを増し、今や見渡す限りの黄金の海へと変わっていた。なので俺は今日、麦を刈ることにした。


 もちろん鎌は使わない。


 もくもくと入道雲がそびえる灼熱の下で、汗と泥にまみれた手で一茎ずつ、無心にむしり取る。遠くで復活した風車が「ゴウン、ゴウン」と力強く回っているが、俺がそれを利用することはない。脱穀すら自分の手でやるつもりだった。なるだけ時間や労力を消費することこそが、俺を戦いから遠ざけてくれる唯一の救いだったからだ。


「……あのときはごめん」


 背後からマルゴの声が届いた。昼食を知らせに来たのだろう。


「こっちこそごめん。巻き込んじゃって……」


 俺は顔を上げず、ただ背中で返事をした。このやり取りも何回目だろう。だけど何度謝っても、謝り足りなかった。彼女の命がかかっている以上、俺にできることは手を動かすことだけ。飯など後回しで構わなかった。


 今日マルゴが持っているのは赤い日傘なのだろう。日に透けた赤が、黄金色の視界の端をわずかに染める。俺は「後で行くから」と短く返し、さらなる没頭へと逃げ込んだ。


 ぶちぶちと茎をちぎる鈍い音。乾いた穂先が擦れ合うカサカサという音。


 それだけが世界のすべてになるまで、執拗に手を動かし続けた、その時だった。


 背後で、クレープの楽しげな鼻鳴らしが聞こえた。軽やかな息遣いに、喉を鳴らす甘えた声。それだけなら、何も問題ない。だけど、それと同時に聞こえてくる足音に、俺の背筋は総毛立った。


「おい戦闘狂」


 斜め後ろから伸びてきた長い影が、俺の手元を真っ黒に塗りつぶした。


 不穏な気配にこらえきれず振り向くと、まばゆい逆光が飛び込んできた。真夏の太陽が黄金の海を白く飛ばし、俺のすぐ後ろに立つマルゴと、そこから数歩離れた位置でこちらを見下ろすその「影」との輪郭をぼかしていた。


 だが、その特徴的なシルエットを見間違えるわけもない。


「ずいぶん熱心じゃねーか!」


 影の主は、院長だった。


 逆光のせいで表情までは読み取れない。だが、筋骨隆々とした巨体、その足元でクレープが尻尾を振り、白衣の裾を甘噛みしている様子だけは、暴力的なまでの光の中にくっきりと浮かび上がっている。


 そんな影が粗雑に動いた。院長は背中に手を回すと、


「手じゃやりにくいだろ。これを使え」


 ぶっきらぼうにそう言って、俺に向かって何かを放り投げた。


「なっ!?」


 ブオン、と強風が吹き抜け、何かが勢いよくこちらへと飛んでくる。刹那、重量感のある細長い塊が、麦の穂波を無慈悲に押し潰し、乾いた土を跳ね上げる音がした。


 俺は目を丸くした。


 足元に転がってきたのは、俺の剣だった。赤い鞘に金細工で装飾が施されたロングソード。それは、俺がずっと愛用してきた剣だった。


 腰が抜けそうになって、俺はよろめいた。


 なぜ今ここにこんなものがあるのか、院長がどういう意図でこれを持ち出してきたのか、こいつ相手に戦わせてくれとわめいた過去の自分はどれほど狂っていたのか、様々な疑問がいっぺんに押し寄せて、神経が焼け切れそうになった。


 首輪の裏がびりびり痺れ、頭の奥からアスタチンの声がする。「取れよ。お前の剣だ」


 だけど、これは幻聴だ。俺の破壊衝動が見せる幻覚だ。俺はそれを理解している。飲み込まれずにここまでやってきている。だから、


 こんなのはただの剣だ。


 心のなかでそうつぶやき、俺は腹に力を込め、剣から顔を上げた。両足で踏ん張って、院長をぐっとにらみつけた。


「いい剣だな」

 と、院長が言った。

「風の力を封じ込めた魔剣だ」


「それがどうした?」


「拾えよ。それさえあれば収穫なんて一瞬で終わる。もちろん、()()()()()で使ってもらっても構わんぞ」


「拾わない」


 俺はじっと院長をにらみ続ける。


 逆光に縁取られたその巨体は、立ちはだかる真っ黒な壁のようだ。


 こいつは強い。本能が警鐘を鳴らし、脳内で勝手に戦闘のシミュレーションが回り始める。太陽の位置、立ち回り、剣を拾って右からの最短経路――


 そんな自分の病気が弾き出す冷徹な最適解に、俺は吐き気を覚えた。


「……俺は剣を拾わないし、戦わない」

 こみ上げる嘔吐感を飲み込み、俺は必死で言葉を継ぐ。

「だからっ、首輪が外れたら、退院の許可を出せっ!」


「何を言っている? 退院したけりゃ勝手に島を出ればいい。舟なら倉庫に予備がある」


「勝手に、って、首輪があるだろ?」


「は? んなもん今ここで切り落とせばいいじゃねーか」

 と、院長は顎で剣を指し示す。

「お前なら余裕だろ?」


「なっ」


「ここではすべてが患者次第だ。退院したかったらさっさとしろ。俺は構わん。もちろん、今ここで俺と戦ったっていいんだぞ?」


「お前いい加減にっ――」


 と、前へ踏み出しかけた足が、ピタリと止まった。


 すぐそばでマルゴが不安げに俺を見ていた。クレープが舌を伸ばしたアホ面で俺を見ていた。


 これは罠だ。


 院長の表情は逆光でよくわからない。が、わざとらしく腕を鳴らし、肩を回すそのシルエットから、楽しげな笑みだけは透けて見えた。


 こいつ、久しぶりに会ったと思ったらこれだ。レイル先生と違って、ろくに仕事してないくせに偉そうに!


 俺は、泥と脂にまみれた拳を、指が食い込むほどに固めた。


「あぁ。俺はいつでも退院できる。……でもな、俺はガーモと賭けてんだ。首輪が外れたら、マルゴからガーモがいなくなる。それまで退院するつもりはねぇ」


「ほう。そうなのか」


「そうだ。だからガーモが消えたら、マルゴの退院も認めろ」


「おいおい」

 院長が大げさに肩をすくめる。

「何度も言うが、全部お前らの自由だ。そんな鳥、いようがいまいが関係ない」


「……たしかに聞いたからな」


「あぁ……、ただな」


 院長の低い声と同時に、一陣の風が麦畑を奔り、白衣の裾が乱暴に翻った。


 雲が太陽を遮り、一転して周囲が沈んだ色に沈む。露わになった院長の横顔は、剥き出しの岩のように険しく、無機質な眼差しをマルゴへと向けた。


 彼女と、その肩のガーモに向かって、院長は続ける。


(そいつ)が消えたとき、お前が真に依存(アディクション)から脱却できるのか、見ものだな」


 日傘が傾く。マルゴの顔が、その影に深く沈み込む。


「うるさい!」

 俺は叫んだ。

「お前は知らねーだろうがな、マルゴは今すげぇ頑張ってんだ!」


 嘘じゃない。事実、あの日以来、彼女の部屋の荷物は増えも減りもしていない。


 だから、俺は続ける。


「アディクションだかオーディションだか知らねーが、大丈夫に決まってんだろ!」


「そうか。ならいいな」

 院長は吐き捨てるように言い、俺たちに背を向けた。

「本当にそうなってくれたら、医者としても嬉しいよ」


 そのまま重症病棟の方へと歩き始めた彼のあとを、クレープが尻尾を振って追いかけていった。


 俺は、荒れた指先からにじむ血と泥を、握りしめた掌の中でぐちゃぐちゃにかき混ぜた。


 耐えろ。俺が耐え続ければ、全部終わるんだ。


 そう自分に言い聞かせ、俺は足元に転がっていた忌々しい鉄の塊を、畑の奥へと蹴り飛ばした。

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