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3-11

 クレープの散歩コースは決まっている。


 俺たちが暮らす「軽症病棟」の裏から畑を横切り、北東の岩壁に建つ「重症病棟」へと続く坂道がそれだ。


 日増しに色づく麦の匂いを嗅ぎながら、跳ね回るクレープの後を、俺は車椅子を押してついていく。膨らんできた雲が太陽を隠し、日差しはいつの間にか柔らかくなっていた。


 畑を抜けると左右から岩がせり出し、道はくねくねと曲がり始める。寄り道を繰り返すクレープに合わせ、十五分ほどかけてゆっくりと進む。俺たちの間に会話はなかった。車椅子を押す俺の視界では、マルゴの姿は黄色の大きな日傘にすっぽりと隠されていた。


 坂を登り切り、視界が開けると重症病棟が姿を現した。するとクレープは、待ってましたと言わんばかりに建物へ駆け寄った。


 そこは、病棟というより見張り小屋や倉庫を思わせる、小さく不気味な平屋だった。


 風化した黒レンガの壁。赤く錆びついた鉄扉。同じく煤けたドアノッカーのライオンが泣いているように見えてやるせない。明り取りの小窓以外に外を覗く術はなく、中の様子は一切伺えない。


 建物は矢じりのように突き出した崖の際に立ち、背後からは猛烈な海風が吹き上がってくる。崖下を覗けば、垂直に切り立った岩壁の先に、白く泡立つ岩礁が牙を剥いていた。あそこに落ちれば、まず助からないだろう。


 クレープが鉄扉に前足をかけ、ノッカーをガチャガチャと鳴らした。


 レイル先生によると、院長は基本的にここで生活しているらしい。そして、意外にもクレープは彼に懐いており、時おり散歩に付き合う姿も見かけていた。今日も遊んでもらうつもりなのだろう。


 だが、今日は波止場に舟がない。院長は島外に出ているはずだ。


 案の定、どれほど扉を叩いても反応はなかった。クレープはしばらくして諦めたように尻尾を下げると、とぼとぼと引き返してきた。


 俺たちも、帰ることにした。


 波止場からここまで、きれいに車椅子の跡ができていた。院長は一体何をしているんだ、と俺は思う。マルゴはこの前、院長と何ヶ月も話していないと言っていた。クレープと遊ぶ暇があるのなら、ガーモを消すやり方を探すとか、マルゴを助けてやればいいのに……


 車椅子のハンドルを握る手に力が入る。


 パイロンは昔、あの重症病棟にいたらしい。目を離すと炎を撒き散らすレベルだと、付きっきりの治療も必要だろうけど、だからといってマルゴを放置していいわけがない。毎日診察してくれるレイル先生と比べると、適当過ぎるんじゃないかと思ってしまう。退院にそんな奴の許可がいるというのが不思議でならなかった。


 いつしか周囲が暗くなっていた。


 分厚い雲の奥から雷鳴が響く。雨に打たれる前にと、俺たちは急いで坂を下った。相変わらず会話はなく、車椅子のきしむ音だけが暗い麦畑に溶けていった。


 軽症病棟の近くまで来たところで、俺は足を止めた。


 先を行くクレープが、建物の壁際で頭一つ分ほどの穴を掘っているのが目に入った。


 クレープは、そこに本を埋めようとしていた。それはジクロロメタンの本で、俺が車椅子のポケットに入れておいたはずの本だった。


 考えるより先に、手が動いた。


 俺は雄叫びを上げ、近くの岩に拳を叩きつけた。雷鳴を凌ぐ爆音を轟かせ、岩が粉々に砕け散る。


「ワキャン!」


 クレープは本を放り出し、一目散に森へと逃げ去った。一拍遅れ、まただ、という後悔がやってくる。俺はしびれる拳を突き出したまま、その場でフリーズしてしまう。


「……大丈夫?」


 日傘の下から、マルゴの怯えた声が問いかけた。それと同時に、上空から黒い何かが急降下してくる。


「犬を殺すほうに三十万ダッ」


 黄色い傘の上に止まったガーモが、嘲笑うように声を上げた。


「こいつ、全然治ってないダッ」


 俺は震える拳を引き下げ、無理やり声を絞り出した。


「……岩を割ったのは、風車のためだ。ちょうど、レンガが足りなかったんだ!」


 バレバレの虚勢に、首輪が熱を帯びる。久々にそれが皮膚に食い込む感覚を覚える。


「やっぱ五十万ダなこりゃ。なぁマルゴ、賭けようダッ?」


「黙れ!」


 その瞬間、雨が降り始めた。


 一気に、強く。一滴がずっしりと重い大粒の雨が麦畑に降り注ぐ。閃光が辺りを真っ白に焼き、数瞬遅れて雷鳴が轟く。


 濡れた服が、みるみる重くなっていく。


 穴の中に打ち捨てられた本もまた、濡れて薄汚く変色していく。


 俺は雨に打たれながら、ガーモを見据えた。黄色い傘の生地の上でしずくが跳ねて、水鳥の羽根が艶めいていくのがイラついた。


「ボクは大丈夫だから……」


 そう漏らすマルゴに、俺は答える。


「大丈夫じゃない」


 俺のせいで、彼女がまた賭けに引きずり込まれる。それが不憫でたまらなかった。


 こいつさえいなければ、彼女は救われるのに。


 内側から湧き上がる言葉を、俺は土砂降りの雨の中へ叩きつけた。


「おいガーモ! マルゴとじゃなく、俺と賭けをしろ! 俺から首輪が外れたら、マルゴの前から消えろ!」


「外れなかったらどうするダッ?」


「俺のっ、俺の命をくれてやるっ!」


 傘が大きく揺れ、バランスを崩したガーモが呆れ顔でくちばしを開く。


「ダッ!? お前の命なんて別に欲しくないダッ、そんな賭け乗れないダッ」


「じゃあ何を賭ければいい? 何を賭ければマルゴから消える?」


「そうダな……三ヶ月で首輪が外れなかったら、マルゴの命をもらうダッ!」


「は? そんな賭けこそ――」


 乗れるわけがない、と言いかけたところで、俺は言葉に詰まった。


 突如、傘ごとガーモが放り投げられたからだった。


「ダッ、ダッ、ダァッ!?」


 バサバサと羽ばたくガーモを宙に残し、マルゴがこちらを向いた。


「え……?」


 戸惑う俺を馬鹿にするかのように、雨が一層勢いを増して、


「……それ、いいね」


 と、彼女は言った。車椅子がきしみ、髪が流れ紫の両目が顕になった。


 近くで再び雷が落ち、左眼窩に埋め込まれた宝石(アメジスト)の上で光が乱反射する。その頬に浮かんだ歪んだ微笑みを際立たせる。


 雨に濡れながら、マルゴは続ける。


「その賭け、乗った」

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