3-10
「これは水魔法に関する学術誌だね。パイロンくんがよく読んでるやつ」
次の日、マルゴが教えてくれた。
「これってあの人のだったんだ。てっきりレイル先生のだと思ってた」
俺たちは今日も砂浜にふたり並んで座っていた。マルゴは俺がサルベージした黄色い日傘をさして、同じく黄色いドレスを身につけていた。
砂浜に座る俺たちの前には、果てしない海が広がっている。打ち寄せる波の音、その形は刻一刻と変化し続け、潮の香りを帯びた涼やかな飛沫が俺たちのところまで届いてくる。水魔法と聞くと、どうしても海を意識せずにはいられない。俺が戦った水魔法使いはみんな、津波や渦潮といった小さな海を作り出していた。
火炎魔法への衝動を水魔法の本を読んで打ち消す、そう考えると理にはかなっている。けれど、そんな特殊な本をなぜジクロロメタンが持っているのかはわからない。結局、彼は彼の過去について話してはくれなかった。
「キミは本当にすごいんだね。あの人と話せるなんて」
「たまたまだよ」
「そんなことないよ。ボクここに二年入院してるけど、一度も話したことないもん。キミは風車も直すし、首輪が外れれば退院できるよ」
「そうかな?」
「そうだよ。たしか三ヶ月で外してもらえるんだよね。今日何日目だっけ?」
「二十三日目かな」
「すごいじゃん。あと二ヶ月ちょいなんてあっという間だよ」
「いやいや。マルゴだって今日で百七十二日目って言ってたじゃん。俺よりずっと長い。それでも退院できないのか?」
「うん。ボクはたぶん一生ここから出られない」
「そんなことないだろ?」
「ガーモが居なくならない限り、院長は許可を出さないよ」
「そんなこと……」
そこで、俺は言葉を失った。
マルゴが俺に隠れ、ガーモ相手に魔術賭博をしているであろうことに気づいていたからだ。部屋に行くたび、運び込んだ荷物があるべきところから消えていたり、逆に見たこともないような服や小物が棚に増えていたりもした。
けれど、それを指摘する資格は俺にはない。
俺だって殺してこそいないが、些細なことでキレたり怒鳴ったり、戦いの火種を消しきれていなかった。そんな俺には、マルゴの嘘を取りただす権利などないような気がして、俺はあえて知らないふりをして見逃していた。
長い沈黙のあとで、
「ねぇ」
マルゴが車椅子のひざ掛けにもたれ、肩に乗ったガーモを俺に向けた。
「なんで私にガーモが取り憑いたかわかる?」
「え?」
日傘の陰に潜んでいたガーモと、目があった。ガーモはきょとんと間抜けな顔をしていて、俺は答える。
「たしか使い切った親のお金の埋め合わせじゃ?」
「違うの。本当は――」
「嘘つく方に五万ダッ」
マルゴの言葉にかぶせるようにガーモが言った。黄色いくちばしがパクパク開き、久々にこいつの声を聞いた気がした。
「いや、黙り続けるほうに十万ダッ」
「うるさいっ!」
マルゴが眉根にしわを寄せ、ガーモを追い払う。
「賭けようダッ。賭けようダッ。マルゴは何も言えないダッ。絶対話せないダッ!」
そう言いながら、ガーモは空へと羽ばたいていく。
俺はそのシルエットを目で追うも、強い日差しに遮られた。
太陽が高かった。
夏が近づいていた。俺たちのすぐ後ろに、半分ほどできあがった風車が建っていた。薄いうろこ雲を背景に建つそれは、レンガの凹凸が不格好だった。
額から流れた汗が鼻の脇を伝って顎へと流れ、俺はマルゴに目を戻す。
マルゴはすっと日傘を傾け、ぽつりと言った。
「ごめん。今はまだ話せない」
その声は傘のせいでくぐもって聞こえた。
俺は何か答えようとしたが、適当な言葉が思いつかず、タイミングを失った。あとはただ、寄せては返す波の動きを眺めることしかできなかった。
数分ほどそうしていると、病棟からクレープがこっち向かって駆けてくるのが見えた。
「ワンッ!」
「のわっ」
クレープは予想以上に素早く、身構える前に勢いよく飛びつかれ、俺は砂浜にひっくり返った。
だけど、
垂れた耳に濡れた鼻。いつもならウザい舌のベロベロも今日は別に悪くなかった。砂まみれになった俺は、俺と違って首輪のないそいつを両手でかかえながら立ち上がる。太陽の臭いがして、クレープが鼻を鳴らした。
俺はクレープとじゃれ合いながら言った。
「昔のことなんて、別によくないか? 大事なのはマルゴの現在だ。昨日がダメだったとしても、今日を頑張ればいい」
それは昨晩ジクロロメタンに言われたのと似たような内容で、自分でも少し驚くと、マルゴが日傘をあげて俺を見た。まぶしいのか、彼女は片目を細めていた。その紫の輝きに、俺もまた目を細めた。
「俺だって昔のことよくわかんねーし。なのにマルゴだけ言わせるのって、なんていうかこう、フェア、じゃなくね? だから別に言いたいときでいいよ」
マルゴは日傘を握る手に力を込め、少しの間、黙って俺の顔を見ていた。
彼女は何かを言いかけるように口元を動かしたが、結局、言葉にはならなかった。彼女は一度だけ視線を海へと落とし、それから、思い出したように小さく笑って、
「ありがとう」
と、言った。潮風が吹き抜け、彼女の紫色の髪が日傘の影で揺れた。
「ねぇ。一緒にクレープの散歩に行かない?」




