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3-9

 そういうわけで、俺は久々に部屋に戻った。


 灯りがついていて、ジクロロメタンはまだ起きていたが、俺を一瞥するとそっぽを向いて、特に何を言うわけでもなかった。


 俺は飛び込むようにベッドへ潜り込んだ。ベッドは相変わらず柔らかすぎて、その居心地悪さを追い払うように、俺は硬く目を閉じた。


 先生との診察室でのやり取りが頭のなかでぐるぐると渦巻いていた。こめかみの裏あたりがじくじくと鈍く疼いていた。


 簡単には眠れないだろうな、と俺は思う。


 気になるのはキスのことじゃなくて、過去のことだ。先生は無理に思い出さなくていいと言ってくれたが、診察室を出て以来、食事をしようが風呂に入ろうが、俺はつい過去を思い出そうとしてしまう。別にしなくていいのに、わざわざあの不吉な闇を覗き込んでしまう。


 しかも、ろくに思い出せないから始末が悪い。


 記憶力に問題があるとは思えない。この島に来てからの記憶はたぶん、問題ない。読み書きだって、日増しにレベルアップしてるじゃないか。


 ならば、思い出したくないのだろうか。幼少期に辛い過去があったのかもしれないのなら、記憶に蓋をしているとか、そういうのだろうか。


 レイル先生によると、人生で最も古く印象に残っている風景のことを原風景と呼ぶらしい。


 俺の原風景はなんだろう?


 頭を巡らせる。とにかくちょっとでも古いものだ。病院、戦場、兵舎、王宮、王都……


 細部がかなりもやっとしているが、これくらいまではなんとなく思い出せる。


 もっと、もっと古いやつ。となると、市場、港、街道……


 街道! 


 その単語は、俺の頭の中に軍隊のラッパのように響き渡り、はっきりとしたイメージがもくもくと膨らみ始めた。


 それは郊外の街道だった。


 切り開かれた森、舗装されていない黒い土の上に暗雲が垂れ込めている。雷の遠鳴りが聞こえ、今にも雨が降りそうだ。そんな狭く凸凹した街道の中央で、一台の馬車が横転している。


 一人の男がその馬車の下敷きになっていた。赤い髪の男だ。男は路上にうつ伏せになっていて、男の体の下には多量の血溜まりが広がっている。


 男の前には剣が転がっていて、赤い髪の男が顔を上げる。


「殺せ!」


 と、男が言った。彼は髪だけでなく目も燃えるように赤く、その顔はなぜかアスタチンで、彼は続ける。


「そうすれば考えなくてすむ」


 その言葉に、俺はまたしても深い闇に飲み込まれる。


 ヤバい。


 一気に窒息感を覚え、俺はパニックに陥った。なにもかもが黒く塗りつぶされていき、陸にいながら溺れそうになった。


 しかし突然、


「おい戦闘狂」


 何者かに話しかけられ、俺は呼吸を取り戻した。目を開けると闇が消える。気づくと、ガウンが冷や汗で重く肌に張り付いていた。魔鉱油ランプの薄明かりすら、今はまぶしく感じられた。


「眠れないんだろう?」


 声の主はジクロロメタンだった。


「……だからなんだ」


 激しい胸の鼓動を悟られぬよう、俺はキレ気味に返した。どうせまた、眠れないなら殺してくれとかそういうことだろう、そう思った俺は布団をかぶろうとしたが、ふと考え直し、


「なぁ、あんたはなんでここに入院しているんだ?」


 と、彼に問うた。


 それくらい怖かった。あのどす黒い闇は俺のまぶたの裏側に焼き付いていて、まばたきはおろか、布団をかぶるなんてとんでもなかった。


 ジクロロメタンが何も言わないので、俺は続ける。


「目を閉じると闇に飲まれそうなんだ。先生は過去と向き合えって言うけど、俺の過去は真っ暗闇で、宿敵(ライバル)のことしか浮かばないんだ」


 話し始めると、言葉は堰を切ったように止まらなくなった。


「なぁ、ここに入院してるみんなはこれに耐えてるのか? きつい過去と向き合って、それでも我慢して、自分をコントロールしてるのか?」


 沈黙があった。


 窓の外からカエルの鳴き声が聞こえてくる。そういえば最近雨が多い。いつしか夜でも蒸し暑くなってきて、夏が来ようとしていた。


 しばらくして、ジクロロメタンが言った。


「お前、ここに来て何日だ?」


「目が覚めてからだと、三週間だ」


「そうか。私はここに三十年入院している」


「……へ?」


 何気なく発せられたその言葉に俺は耳を疑った。周囲のカエルですら、鳴くのをやめたかのように思え、がばっと起き上がり、彼に向き合う。


 ジクロロメタンはどう見ても、俺より年下にしか思えなかった。


 ベッドの縁にちょこんと腰掛けるその見た目は、どう見ても十歳そこらにしか思えなかった。背は小さいし、体が薄く、手足が細い。目が冴えるようなグリーンの髪の隙間から見え隠れする皮膚にはシミひとつ、そばかすひとつ見当たらない。


 彼は今日も瓶を持っていて、その中身は薄黄色の錠剤で、俺は言う。


「嘘だろ?」


「ある種の回復薬は副作用で若返りの効果が出る。それだけのことだ」


 ジクロロメタンはそう答えると、瓶を傾け数十錠はあろうかという錠剤を一気に口の中に流し込む。バリバリと薬を噛み砕きながら、言葉を続ける。


「過去なんて振り返らなくていい。あの女に何を言われたのか知らないが、思い出したくないものを思い出す必要はない」


 そこまで言うと、ジクロロメタンは補充用の魔鉱油が入ったボトルを手に取り、注ぎ口に口づけた。俺がぎょっとしたのもつかの間、彼はそのままそれをゴクゴク飲み干すと、ぼそりと言った。


「過去なんて必要ない。必要なのは現在(いま)だけだ」


 それは俺に向けてというより、独り言じみた言い方だった。


 再び沈黙があった。


 俺はどう答えたらいいのかわからなかった。


 ジクロロメタンもそれ以上なにも言わないので、少しして俺はばたりとベッドに倒れ込んだ。


 目をつむると、闇が少しマシになったような気がした。


 それでも眠ることはできなかったが、習った文字を反芻するくらいならできるようになっていた。ジクロロメタンはどう綴るのだろう。明日マルゴに聞いてみようか。それだけ考えていれば、少なくとも今夜は踏みとどまれた。


 何分ほどそうしていただろうか。落ち着いたとはいえ眠れぬ俺に、今一度ジクロロメタンが話しかけてくる。


「飲むか?」


 まぶたを開き、顔だけそちらに向けると、彼は別の瓶を持って立っていた。中に入っているのは赤色の錠剤だ。


 彼は、笑っているのかいないのかわからない薄い表情を浮かべた。


「腹筋一万回よりかは楽に飛べるぞ?」


「は?」


「心配するな。ただの睡眠薬だ。私にはもう効果がないがな」


「いや、いい」


 俺は起き上がり、言った。


「でも、……ありがとう」


「……ふん。こちらこそ、この前は悪かったな」


 彼は背を向けると自らのベッドに戻り、そばの棚の引き出しからなにかを取り出した。


「ならこれでも読め」


 それは本だった。


 彼は投げ捨てるようにそれを俺に手渡し言った。


「文字を習ってるんだろう?」


「ありがとう」


 それはずっしり重い革張りの本で、俺はその表紙を見た。


 水、そして六月という単語しか読み取れなかった。


 さっそく辞書を使って調べてみると、『ロイヤル・ジャーナル・オブ・ウォーター・ウィザードリィ』というタイトルで、『王立水魔法雑誌』の六月号といったところだろうか。


 パラパラとそれをめくる。


 中身はなおさら読めなかった。本の中にはページを埋め尽くす難解な単語だけでなく、謎めいた図表やグラフのようなものまで並んでいる。辞書を使っても、単語の説明文を解読するために、さらに辞書を引かねばならぬ有様だ。


 半ページ頑張っただけで頭がぼんやりしてきて、俺は気づかぬうちに眠っていた。

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