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3-8

 それ以来、俺は部屋に戻らなかった。


 ホールで寝続けても、特に支障もなかった。腹の傷も完全に癒えて、俺は昼夜を問わず、海と森と畑とを行き来し働き続けた。


 もちろん、道具は使わなかった。


 マルゴの仕事も俺がやった。パイロンから辞書を借りて自習し、サルベージした物品を収める棚を作り、病院各所に車椅子用のスロープも作った。


 ただそれでも時間は余り、俺は風車を建て直すことにした。


 風車の修理をしていると、時間が早く過ぎた。


 昼の仕事でどうしても道具が必要なときは、レイル先生やパイロンに手伝ってもらえばよかったが、レンガはそれ自体が凶器だ。誰かの視界に入る状況が怖くて、夜にこっそりひとりで積んだ。モルタルを素手で塗ると肌がボロボロに傷んだが、人を傷つけることに比べたら、自分が傷つくことは、あまり気にならなかった。


 そうして一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。


「これじゃ、戦ってないのに戦ってるみたい」


 ある日、診察室で俺の指の傷を消毒しながら、レイル先生がぽつりと言った。


「痛っ……!」


 消毒液が染みて、俺は思わず声が出る。


「薪って素手で割れるものなんだね。金槌を使わず釘も打つし……」


「そんなの全然余裕ですよ」


「いやいや、怪我してるんだから十分じゃないでしょ? それにちゃんとベッドで寝なきゃ」


「いや俺、床のほうが寝れるんで」


「はぁ……」


 先生はため息をつき、俺の指先に丁寧に軟膏を塗り込んでいく。その柔らかな指先が胼胝(たこ)だらけの俺の指を撫でていく。


「無理しちゃダメ。過度な疲労だって破壊衝動を呼び起こす。読み書きだって頑張っているんでしょう?」


「まぁ、そうですね」


「ならもっと休まなきゃ。不適切な行動を置き替える()()行動も行き過ぎれば、それ自体が不適切な()()行動に、別の依存に繋がってしまうんだよ」


「それはわかってるんですけど……、でも、何かしないと……」


 そんなふうに口ごもる俺を、先生はメガネの奥の金色の瞳で見据えた。しばらく俺の目を見つめ、何かを測るように小首を傾げて、言った。


「そろそろ、心の傷(トラウマ)の治療を始めてもいいかもしれないね」


「トラウマ、って?」


「依存症の多くは、幼少期の辛い過去に根ざしていると言われているの。タンタルくんが戦闘に依存してしまったのも、過去に原因があるのかもしれない」


「過去?」


「タンタルくんは今たしか十六歳で、十三で軍に入ったんだよね? 軍に入る前はどこにいたの?」


「それは……」


 答えようとした瞬間、心臓を冷たい手で鷲づかみにされたような感覚を覚えた。


「え……? ちょっと待ってください。あれ、俺……?」


 何も、思い出せなかった。


 そもそもなんで軍に入ったんだ? それまでどこで暮らしてた? 親は? 家は? 兄弟はいるのか? つか俺って本当に十六だったっけ? 誕生日は?


 そんなことすら覚えていないのか、とぞっとする。


 すべてが、霧の向こうでぼやけていた。いや、霧ですらない。俺の脳の一部が、真っ黒なインクで塗りつぶされているような、絶対的な虚無。


 そんな俺を逃がさないように、先生が問う。


「なら、初めて剣を握ったときのことは?」


「それは……う、あ……」


 浮かばない。首をひねり、意識の底をさらうが、指先には何も触れることがない。


 数十秒の沈黙の後で、俺がようやく絞り出せたのは唯一の単語だった。


「……アスタチン」


 だが、アスタチンのことすら、俺はよくわかっていないように思われた。


 奴の見た目。鉄塊のような大剣。トリッキーな戦い方。その割には芯の通った太刀筋。そういったことは思い出せる。覚えてる。だけど、あいつとどうやって出会った? なんで、あいつは俺の宿敵(ライバル)なんだ?


 ぐらり、と体が揺れて、俺は椅子から転げ落ちそうになる。ジリジリと神経が焼け焦げる臭いがして、目の前が真っ暗になって、何も、何一つ見えなくなって……、


 そこは闇。アスタチンが住まう深い闇。


 そんなのっぺりとした闇の隙間から、


「ねぇ」


 と、レイル先生の声がした。


「ねぇタンタルくん、深呼吸して。ゆーっくり、息をして」


「あ……、あ、はい……」


 言われるがままに鼻から息を吸い、止め、ゆっくりと吐き出す。


 それを五回繰り返すと、ようやく世界に光が戻ってくる。


 何度も、鼻から息を吸い、止め、ゆっくり吐く。


 十回繰り返すと、手足の震えがましになり、ぼやけた視界の中央から、レイル先生が優しい声で慰めてくれる。


「仕方ないよ。過去(トラウマ)と向き合うのは大変だもの」


「……そうですか」


「そうだよ。あ、ちょっと胸を出してみて、音を聞いてあげる」


 先生が聴診器を耳にかけ、俺にシャツをめくるよう促した。指示通りそうすると、金属のベルが胸に触れた。それはとても冷たくて、焼け付くようだった頭の痛みも少しずつ引いていった。


 そのまま、俺は深呼吸を繰り返した。


 鼻から大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐く。


 ひたすらに、習ったばかりの文字——R・A・I・Lという綴りを脳内で唱えながら、その動作を重ねていく。


 R・A・I・L。R・A・I・L。R・A・I・L。


 先生はベルを俺の胸に押し当てたまま、じっと目を閉じていたが、やがて満足げに目を開けて俺を見た。


「落ち着いてきたね。タンタルくんは頑張ってる。もっと自信を持っていいんだよ」


「……そうですかね?」


 顔を上げると、先生が聴診器を当てたまま、ふっと微笑む。


「そうだよ」


 メガネを挟んで、金色の瞳と向かい合う。その瞳が穏やかに細められ、彼女は続ける。


「でも、もっとモチベーションが上がるようなことがあるといいんだろうね」


「モチベーション?」


「やる気がでるようなこと……、そうだ。首輪が外れたら、ご褒美にキスしてあげようか?」


「ひぇっ!?」


 跳ね上がった俺を見て、先生は悪戯っぽく笑った。


「あ、鼓動が早くなった」


「え、ちょっと、え? 冗談、……ですよね?」


「うん。冗談」


「そんな冗談やめてくださいよ」


「ふふっ。ごめんごめん。医者としては失言だったね。でも、あながち冗談でもないかも。それくらい君はよくやってるから」


 先生は聴診器を外し、ふっくらとした唇を綻ばせる。俺はどぎまぎして、目のやり場に困ってしまう。


「風車の修理代としては安いくらい。だからタンタルくんはベッドで寝てもいい。というか、今日からはベッドで寝ること。わかった?」

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