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3-7

 その日の夜。


「いつになったら殺してくれるんだ?」

 と、ジクロロメタンが言った。


「は?」

 と、腹筋しながら俺は答えた。


 久々に話しかけられたと思ったらこれだった。こいつは初日以来、何も言ってこなかったから放置してたけど、なんら変わっちゃいなかった。


 抑揚のない声が続く。


「トレーニングなど無駄だとわかっているだろう?」


 俺は体をねじって振り返り、隣のベッドをチラと見る。


 柳のような髪の間から、爬虫類じみた目がこちらを見下していた。ジクロロメタンはいつものように薬の入ったガラス瓶を持っている。今日は茶色い錠剤だ。


「お前、戦闘狂が治ると思っているだろう?」


 ジクロロメタンがそう言って、俺は答える。


「あぁ。戦わなかったらな」


 そうだ、と俺は思う。戦場に行かなければ、武器を持たなければ大丈夫だ。


 俺は脇腹に力を込めて体幹のツイストをキープして、ジクロロメタンをにらみつけた。腹の傷がうずく限界までトレーニングしてから寝るのが日課となっていた。日増しに負荷を上げ、もうほとんど普段通りトレーニングできている。何事もなく戦える――いや戦いはしないけど、もう普通に退院できそうだ。


 しかし突然、


「ぷ、ふははっ」


 と、ジクロロメタンが笑い始めた。


 鼻先だけで、大して面白くなさそうだったが、彼は初めて表情を見せた。


「ふははははっ」


「何がおかしい?」


「だってお前、そうやって腹筋している時点で、未練を断ち切れていないじゃないか」


「は?」


「行為依存は行為そのものでなく、それがもたらす脳内麻薬への依存だ。盗みもギャンブルも、戦闘だって変わらない。そして一度壊れた報酬系回路は何をしても治らない。些末な代替案で理性は騙せても、生物の本能は騙せない。すぐに破綻する」


「意味がわからん。何が言いたい?」


「一万回腹筋するより俺の首を絞めろ。そっちの方がもっと気持ちいいぞ」


「いやだ」


「ふん、そう言っていられるのも今のうちだ」

 そう言って、ジクロロメタンは瓶から薬をつまみ出す。

「もっとシンプルに考えろ。トレーニングなんて回りくどいことはやめて、戦いたいなら戦えばいい」


 茶色い錠剤が数錠、柳の隙間に放り込まれ、俺は言う。


「なんなんだお前は!」


 ジクロロメタンは答えず、今度は瓶に直接口をつけて、薬をあおる。そんな様子への苛立ちも相まって、いい加減に脇腹が引きつってきた俺は声を張り上げる。


「好き勝手しやがって! なんで誰も注意しないんだ!」


「ここではすべてが自主性に任せられている」

 ゴクリ、と唾だけで錠剤を胃に流し込み、ジクロロメタンが答えた。

「薬を飲むのも自由だし、お前みたいなバカにバカというのも自由だ」


「なんだとっ!?」


「もちろん、人を殺すのだって自由だ。だから今すぐ私を殺せ」


「いやだっつってんだろ!!」


 俺は体を元に戻し、大きく息を吐いた。手をついて立ち上がると、黙って部屋を飛び出した。


 ランプ片手に廊下を抜けてホールに出た瞬間、開放感を覚えた。すべては患者の自主性に任せられている、というのなら、自分の部屋で寝る必要だってないはずだ。


 俺はホールの石床に手をついて、腕立てをすることにした。


 十回、二十回、三十回。


 肘を曲げて体を沈め、床に顎が触れるたび、首輪が肌に食い込んだ。


 これは枷じゃなくてお守りだ、そう思う。やりたいようにやれば俺は死ぬ。ゆえに俺を守ってくれる。俺を正気にとどめてくれる。


 だけど、


 それが別に大したモノでないことも俺は知っている。レイル先生を脅して、外させれば、それで終わりだ。いつでも、今からでもそれは可能だ。


 百回、百十回。


 そんな邪念を振り払うように、俺は代替行動を繰り返す。


 いつだって本から目を離せないパイロンの顔を思い出す。砂浜に指で描いたP・Y・R・O・Nの文字を思い出す。レイル先生を、マルゴを、自分の名前を、頭のなかで綴り続ける。


 体が燃えるように熱くなってくる。


 二百回……、三百回……、四百回……。


 無心になって続けていくと、滝のように汗が流れ、俺の真下はちょっとした水たまりとなっている。追い込まれてきた胸と腕とがビクビクと痙攣し始める。フォームが崩れそうになるが、鍛えるべく筋肉の形、動きに合わせた呼吸を意識してこらえきる。痛い、辛い、苦しい。


 でも、まだ人は、あのムカつく緑頭は殺してない。


 断薬0分のあいつより、一週間戦闘を断ってる俺のほうが上だ。百五十六日ギャンブルを断っているマルゴのほうが、九百四十二日魔法を唱えていないパイロンのほうがもっと上だ。卿だかなんだか知らないが、俺たちのほうがまともなんだ。


 そうして俺は、千回の腕立てを終えた。


「はぁ、はぁ、はぁっ」


 息を弾ませ、俺はびしょびしょの床に寝転がった。火照った体にホールの石床はひんやりと気持ちよくて、知らないうちに眠っていた。

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