3-5
「たしかに、文字を習うのはいいかもしれないね」
翌朝、抜糸をしながらレイル先生が言った。俺が両手で耳をふさいでいるせいで、その声はくぐもって聞こえた。
「そんなに怖がらなくていいのに。すぐに終わるよ」
俺は診察室のベッドで仰向けになったまま、かたく目を閉じて答えた。
「……刃物を見たくないんです」
視界を遮り、耳を塞いでも、神経はかえって研ぎ澄まされてしまう。 パチン、パチン。ハサミが糸を断つ乾いた音が、頭の奥まで響いてくる。ピンセットで腹の肉を引っ張られる感触があるたび、俺は全身を硬くこわばらせた。
ハサミだけじゃなかった。
ここには刺股や弓矢がある。聴診器を使えば首を絞められる。薬瓶も、縫い針も、俺の手にかかれば瞬時に凶器へ変わる。逃げ場のない武器庫に放り込まれたような恐怖に、俺は奥歯を噛みしめ、まぶたの裏の暗闇に閉じこもった。
「危ない。動かないで」
「ひっ」
突如、皮膚にハサミが触れた。ほんのちょっとだけ。だけどその冷ややかな感触は、剣で斬りつけられたときに感じるそれとまったく同じだった。
真っ暗な世界に赤い髪が揺れた。
アスタチンの声が聞こえてくる。「反撃しろよ」
ほどなくまぶたの裏に映し出された彼は笑っていて、俺は答える。「いやだ」
アスタチンが言う。「なら、こっちから行くぞ」
大剣のきらめきが星のようにまき散らされ、鮮やかな剣筋がこちらに伸びてくる。俺はそれを紙一重でかわす。アスタチンのマントがひるがえり、獣じみた臭気が鼻先をかすめる。
アスタチンは最後に戦ったときと同じ格好をしていた。
つまりズタズタのボロ布みたいなマントをまとっているだけ。マントは返り血を吸い尽くしたのか、とにかく黒く、元の色がわからない。赤い髪からは血と汗の混じったしずくが傷だらけの分厚い胸板へと滴り落ちている。
アスタチンが言う。「お前、やる気あんのか?」
横殴りの一撃。転がるように避けると、俺の足元にはカモの首が落ちている。切断面にのぞく骨と神経、筋肉の束。首のそばには斧があって、俺は衝動的にそれをつかむ。
あぁ、戦いたい。
そこへ、
「タンタルくんどうしたの?」
ぼんやりと、先生の声がした。
「終わったよ」
遠く、霞んだ向こう側から聞こえたその澄んだ声に、がばっ、と俺は跳ねるように起き上がった。
「やばいっ。戦いたくなってきた……」
奥歯がガチガチと鳴り、舌がもつれ声にならない。
「このままじゃ、俺、俺っ……」
――先生を殺しちまう。そう口にするより早く、視界が真っ白に染まった。
同時に、暴力的な衝動を塗りつぶすような、柔らかな温かさが俺の全身を包み込んだ。
「え……?」
レイル先生が俺を抱きしめていた。
白衣越しに伝わる二つの柔らかな膨らみが、俺の額に優しく触れていた。微かな鼓動が脳を叩き、汗で湿った俺の髪に、細くしなやかな腕が慈しむように絡みついていた。
ツンとした消毒液の奥から、陽だまりのような石鹸の匂いがした。
「そういうときは」
耳元で囁く先生の声がなによりも大きく聞こえ、喉の奥が熱くなった。
「鼻から大きく息をするの」
俺は言われたとおりに息を吸った。すると、こびりついていた獣の臭いが、清浄な香りに上書きされていく。
先生が続ける。
「はい、止めて。そのまま、一……、二……、三……、四……、五……。あとはゆっくり、ゆーっくりと吐き出して」
俺は言われたとおりに息を吐いた。肺に溜まった熱をすべて吐き出すと、白衣越しに伝わる先生の心拍と俺のそれが重なり、同期していくのがよくわかった。
「繰り返して」
そうして俺は、深呼吸を繰り返した。
少しずつ、ほんの少しずつだが、全身の緊張がほぐれていった。息とともに胸の奥から熱いなにかがこみ上げてきて、涙があふれて止まらなかった。
いくらかマシになった頭で、俺は考える。
もうアスタチンのことは忘れろ。俺はもう二度と戦場に行かない。軍を辞めて戦ったら次は牢獄だ。下手したら死刑だぞ。
半透明になったアスタチンが言う。「戦いのない人生こそ牢獄だろ?」
だめだ。
俺は長く息を吐きながら頭を振る。汗と涙と鼻水で濡れた白衣の下で胸が揺れる。
先生が言う。「大丈夫だよ」
そうだ。大丈夫だ。戦場に行かなきゃアスタチンとも会わずにすむ。だから大丈夫なんだ。今度こそまともになるんだ。
文字を思い出せ!
T・A・N・T・A・L。T・A・N・T・A・L。T・A・N・T・A・L。
俺は幾度となく習ったばかりの文字を頭のなかで綴りながら、レイル先生の胸の中で呼吸し続けた。
数分後、
「ほら。暴れずにすんだ」
そう言って、レイル先生が腕をほどいた。
俺は力なく先生を見上げた。
メガネの奥で黄金色の瞳が細められ、黒い髪には窓からの光が天使の輪を作っていた。俺の体液で透けた白衣の下に、褐色の皮膚がぼんやりと透けていた。体がなんだかぽかぽかしていた。穏やかな波に揺られ、クラゲみたく漂っているかのような気分だった。
そうやって弛緩する俺に、レイル先生が言った。
「よく頑張ったね」
「はい。ありがとうございます」
「この感覚を忘れないで。ひとりになっても思い出すの」
「できますかね?」
「大丈夫。タンタルくんならできるよ。この調子で一日一日戦わない日を積み重ねていこう」
「そうですね」
と、俺は答えた。そして自分に言い聞かせるように、言葉を続ける。
「頑張ります」




