第九話『王の影、忍び寄る欲望』
私はバルコニーでレオン王子と並び、夜空を仰いでいた。星々が静かに瞬き、夜風が頬を優しく撫でる。舞踏会の喧騒は遠くに薄れ、ここはまるで別世界のように静謐だった。
その時だった。遠く大広間の方から、ざわめきが一気に高まるのが耳に届いた。次いで、張り詰めた声が響く。
「……陛下のおなりだ!」
侍従の声だ。微かに聞こえる人々のどよめき、楽団の音が一瞬沈む気配。
直接目にしていなくとも、私には分かった。──あの人が来たのだ。
胸がひやりと震え、星空を見上げていた視線が自然と揺らぐ。夜風は変わらぬはずなのに、空気が急に冷たく重くなった気がした。
レオン王子が小さく呟く。「父上が……」
その一言に、私は扇を口元に寄せ、そっと息を殺した。かつて私が愛した男。今はこの国の王として君臨する存在。
姿を見ずとも、その影は胸を締めつけるほど濃く迫ってきていた。
大広間から流れてくるざわめきが次第に大きくなり、まるで波が押し寄せるように耳を満たしていく。
「陛下のおなりだ!」
という声が再び微かに響き、楽団の音色がわずかに揺らいだ。
舞踏会全体が緊張の色を帯び、見えぬはずの空気の張り詰めが、ここバルコニーにまで伝わってきた。
私は思わず身を固くし、手すりに添えた指を震わせる。
──オーギュスト。かつて私が愛した人。その影が、すぐそこまで迫っている。
隣で夜空を見上げていたレオン王子が小さく息を吐いた。
「父上が……お出ましになったようだ」
その声音には敬意とともに、わずかな緊張が滲んでいた。
私は振り向き、王子の横顔を見つめる。月明かりに照らされた蒼い瞳は真剣で、その姿が胸に痛いほどに迫ってきた。
「殿下……お戻りにならなくてもよろしいのですか? 皆が……殿下を探しているのでは」
囁くように問うと、王子は静かに首を振り、私の手を取った。
「今はいい。父上の前に立つよりも……私は、あなたとこの夜を分かち合いたい」
その言葉に胸が焼けるように熱くなり、同時に冷たい緊張が背を走る。
「ですが、殿下……」
「サロメ」
彼は強く私を見つめ、言葉を遮った。
「私がここにいるのは、あなたを選んだからだ。誰に何を言われようと、今宵だけはそれがすべてだ」
扇を握る指先が震え、私は言葉を失った。
遠くで鳴り響くざわめきは、確かに王の存在を告げている。
けれど隣にいる王子の声は、私の胸の奥で甘美な響きとなり、不安をかき消していった。
遠くで鳴り響くざわめきが、やがて近づく足音へと変わっていった。
バルコニーの扉が静かに開かれる。夜風とともに現れたその影──現国王オーギュストの姿に、私は思わず息を呑んだ。
「レオンがこちらにいると……ミラ嬢から聞いた」
低く重い声が夜気に響く。
月光を背に立つ王は、威厳を纏った黒の礼服に白銀のマントを羽織っていた。
深く刻まれた皺の間から鋭い眼差しがのぞき、まず王子を探すように辺りを見渡す。
しかし次の瞬間、その瞳が私に留まり、重い沈黙が流れた。
夜風に髪を揺らす私を見つめ、王はほんのわずかに目を見開いた。
その眼差しには驚きと戸惑い、そして拭いきれぬ懐かしさが浮かんでいた。
──私の姿を通して、若き日のアリエットを思い起こしているのだと直感する。
オーギュストはゆっくりと歩み寄り、唇を歪めるようにして言葉を投げかけた。
「なんと……この国の夜に、かくも輝く星が現れるとは」
その声音は褒め言葉でありながら、背筋に冷たいものを這わせる。
王としての威厳に包まれたその目は、ただの称賛ではなく、所有の欲望を帯びて私を射抜いていた。
レオン王子がすぐに父の姿に気づき、一礼する。
「父上……舞踏会にお姿を見せられるとは、皆もさぞ喜んでいることでしょう」
オーギュストは片眉を上げ、軽く笑った。
「王子であるお前が、その場にいなかったのでは、誰も満足できまい。……バルコニーで、なにをしていた?」
「涼んでおりました、父上」
レオンは落ち着いた声で応じると、私の手をそっと握り直し、
「この方と共に」と言葉を継いだ。
王の視線が再び私に注がれる。
鋭い眼差しに射すくめられ、胸がひやりと震える。だがレオンの掌の温もりが、それをわずかに和らげてくれた。
「なるほど……」
オーギュストは低く笑みを漏らす。
「名は……なんといったか」
「サロメ・ルミエールと申します、陛下」
私は扇を胸元に寄せ、かすかに頭を下げた。唇は微笑みを形作っていたが、胸の奥では心臓が鐘のように乱打していた。
「サロメ……光を意味するか」
王の瞳がさらに深く私を射抜く。
「ふむ……確かに、この夜の星々よりも輝いているようだ」
「父上」
レオンの声が硬くなる。
「そのようなご冗談は、サロメ嬢を困らせるだけです」
オーギュストは笑みを深めたが、その奥には何か冷たいものが光っていた。
「冗談かどうか……それは、彼女がどう受け取るか次第だ」
王子の横で胸を張りながらも、私は視線を逸らせなかった。王の瞳は鋭く、まるで逃げ場を与えない捕食者のよう。
甘美な夜風の中で、私の心臓は恐怖と懐かしさ、そして抗えぬ緊張に引き裂かれていた。
オーギュストの瞳が私を捕らえたまま、バルコニーは重苦しい沈黙に包まれていた。
夜風が吹き抜けても、その視線は熱を帯びて離れない。そこに宿るのは驚愕と戸惑い、そして抗いがたい欲望の色──。
──アリエット……? いや、違う。しかし、この娘を……我がものにしたい。
直接言葉にされずとも、胸の奥でその声を聞いた気がして、背筋に冷たいものが這い上がる。
王の眼差しは懐かしさを越えて、所有欲に濡れた捕食者のそれに変わっていた。
胸がざわめき、心臓が鐘のように乱れて打ち始める。
私は扇を胸に寄せ、笑みを保とうと必死に装った。だがその視線に射すくめられるたび、背中を氷の指で撫でられるような不安が広がっていく。
「父上……」
レオン王子の声が静寂を破った。
「今宵はお楽しみいただけておりますか」
オーギュストは一拍置いて笑みを浮かべた。「楽しめるかどうかは……この夜次第だ」
「この夜次第……?」
王子はわずかに眉を寄せた。
「舞踏会は民の憩いと、王家の威光を示す場。それ以上でもそれ以下でもありません」
「ふむ……民の憩い、か」
王はゆるやかに首を傾げ、なおも私を見据えた。
「だが私にとっては……思いがけぬ出会いの場でもある」
レオンの瞳が鋭さを帯び、王の前に一歩進み出た。
「サロメ嬢は私の大切なお客様です。どうかご配慮を」
その声音には若き王子らしからぬ強い意志が込められていた。
だがオーギュストは挑むように口元を歪めた。「大切、だと? ならば護ってみせよ。王子の言葉がただの飾りでないと証明するのだ」
「護ります」
レオンは迷いなく答えた。「私が……命に代えても」
私の胸が強く震えた。
二人の間に漂う張り詰めた空気。甘美に酔いしれていたはずの夜に、冷たい影が忍び込み、私の心臓は乱れ打つ鐘の音へと変わっていった。
夜風に吹かれながら、私はふと過去を思い出していた。
あの男──現国王オーギュストとの日々を。
君主は色を好む、と人々は囁いた。
だが私にとっては、あれは確かに燃え上がるような恋だった。
いや、正しく言えば……不倫だった。王妃がいながら、彼は私を選んだ。欲しいものは必ず手に入れる、そういう男だったのだ。
私はその情熱に酔いしれ、彼と過ごした日々を夢のように感じていた。
だが同時に分かっていた。
私がただの愛人の一人に過ぎないことを。
王は私を愛しているように見えながら、他の女たちにも手を伸ばしていたのだから。
王妃の存在もお構いなしに、身分の低い城の女中にさえ手を出す。
やがて、王の子を身ごもったと噂された女中もいた。
だが彼女はある日、姿を消した。
まるで最初から存在しなかったかのように。
誰もが知りながら、誰も語らぬ真実。──この王は、そういう男なのだ。
あの時の私は、それでも彼を愛してしまった。
愚かだと分かっていたのに。
彼の笑みひとつで世界が変わると信じていた。 けれど今となっては、その笑みの裏に潜む冷たい欲望がはっきりと見える。
幸いにも、レオン王子にはその血の影は受け継がれていない。
彼の瞳を見れば分かる。
誠実さと優しさが宿り、父とは違う光を放っている。
王子と話していると、私は胸の奥で確信するのだ。
──あぁ、この青年には、オーギュストの濁った血は継がれていない、と。
思い出すたび、苦い痛みと共に安堵が胸を満たす。あの王に魅せられた私自身を責めながらも、今、王子の隣で感じる温もりだけが救いだった。