第八話『仮面の影、揺らぐ想い』
楽団の最後の和音が余韻を残しながら消え、大広間は拍手と歓声に包まれた。
シャンデリアの光がきらめき、無数の瞳が私とレオン王子に注がれている。
扇を掲げる令嬢たちの吐息、憧れに染まる囁き。そのすべてが、今宵の“光”を演じる私を称えていた。
「素晴らしかった……」
「まるで絵画のようね」
「王子と並ぶ姿が、あまりにも美しい」
そんな声が波紋のように広がり、胸の奥で甘い熱となって響いた。
つい先ほどまで、老いたアリエットとして浴びていた冷たい視線とはまるで違う。
今の私は、誰もが息を呑むサロメ・ルミエール──光そのものだった。
レオン王子は私の手を優しく包んだまま、静かに微笑んだ。その瞳は観衆の喧噪をも忘れさせるほどに深く、真っ直ぐに私だけを映していた。
「……サロメ。もっとお話がしたい」
胸が一気に熱を帯びる。彼の低い声は甘美で、心臓を震わせるようだった。周囲に見えぬように、彼はそっと身を寄せて囁く。
「この後、バルコニーで少し……二人きりでお話しできませんか」
吐息が耳にかかり、鼓動が跳ね上がった。夢にまで見た王子の誘い──心は歓喜に震え、唇が自然に微笑を形作る。だが同時に、胸の奥を鋭い痛みが走った。
──半日だけ。
ノクスの囁きが甦る。鏡の契約。鐘が鳴るまでに戻らねばならない。もしも時を忘れ、この甘美な幻に酔いすぎれば……すべてが崩れる。
「……殿下のお誘い、光栄に存じますわ」
笑顔を崩さずにそう答えながらも、扇の奥で震える吐息を必死に隠す。胸の奥では甘美な喜びと冷たい焦燥がせめぎ合っていた。
舞踏会の光に包まれながら、私は仮面の下で密やかに震えていた。
人々の視線と喧噪から逃れるように、レオン王子は私の手を取って大広間の奥へと導いた。
重厚な扉を押し開けると、ひやりとした夜風が頬を撫でる。
そこは月明かりに照らされたバルコニー。
大理石の床は銀色に輝き、遠くの庭園からは薔薇の甘やかな香りが漂っていた。
背後に聞こえるのは、まだ続く舞踏会のざわめきと楽団の響き。
だがここは別世界のように静かだった。
王子は手を離さず、そのまま私を星空の下へと誘った。蒼い瞳が夜の光を映し、私を真っ直ぐに見つめる。
「……どうかしましたか、サロメ。踊りの後、顔色が少し赤いように見えた」
胸が跳ねる。私は慌てて扇を広げ、口元を隠した。
「殿下とこうしてご一緒にいるのですもの。夢を見ているようで……少し、胸が高鳴ってしまったのです」
王子はわずかに目を細め、微笑んだ。
「夢……そうですね。けれど私は、夢だとは思えないのです」
夜風が髪を揺らす。彼は一歩近づき、低い声で囁いた。
「不思議なのです。あなたに今夜初めて会ったはずなのに……懐かしいような、心の奥に刻まれていたものを思い出したような感覚がある」
その言葉に胸が激しく脈打ち、喉の奥からアリエットという名が零れ落ちそうになる。
必死に唇を噛みしめ、扇で覆った。危うく真実を告げてしまいそうだった。
「……きっと、運命が人を錯覚させるのですわ」
震える声を押さえて微笑む。
「星の下で巡り合う者は、互いを知っていると錯覚してしまうのでしょう」
王子は首を振り、私の瞳を深く覗き込む。
「錯覚とは思えません。サロメ……あなたの声を聞くたび、懐かしさと共に強く惹かれる。まるで、ずっと探していた相手にようやく出会えたような気がする」
息が詰まり、心が甘く痺れた。「殿下……」思わず名を呼ぶと、彼の表情に熱が宿る。
「サロメ。もしこの夜が永遠に続くのなら……私はきっと、あなたをもっと深く知ることになるでしょう」
吐息が触れるほどの距離で囁かれる言葉。
胸は喜びで焼けるように熱く、それでも心の奥ではアリエットという真実が鋭い棘のように突き刺さっていた。
私はただ微笑みで応えるしかなかった。
静かなバルコニーに、控えめな足音が響いた。月明かりに照らされて姿を現したのは、薄桃色のドレスをまとった可憐な令嬢──ミラ・ド・グレン。
王子の婚約候補として名が挙がる伯爵令嬢だ。頬は夜風に赤らみ、瞳は泉のように澄んでいた。
「殿下……やはりこちらにいらしたのですね。皆さまが心配されていました」
その声音には敵意も嫉妬もなく、ただ王子を気遣う真心がこもっていた。
鈴の音のように澄んだ声が夜気に溶ける。
彼女の無邪気で誠実な眼差しに、私の胸はひやりと凍る。
──私は鏡に映した幻。半日の契約で得た仮初めの存在。それに比べ、彼女は何の偽りもない本物の未来を持つ娘……。
レオン王子は振り返り、柔らかな笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、ミラ嬢。お気遣いに感謝します。けれど、少しだけ……ここで涼んでいたくて」
ミラは頷き、にこやかに微笑んだ。
「殿下がそう仰るなら。ですが……どうかご無理はなさらないでくださいませ」
そのやり取りを聞く間も、私の心は波立っていた。
ミラの声が優しく響くたび、胸の奥で劣等感と焦燥が疼く。彼女こそが未来を担うにふさわしい存在。
対して私は、仮面をかぶった偽りの女……。
扇を持つ指が震え、夜風が冷たく頬を撫でた。
だが次の瞬間、王子は再びこちらを振り返り、真っ直ぐに私を見つめた。その蒼い瞳に宿る熱は、紛れもなく私に向けられていた。
「サロメ……もう少し、ここで共に星を眺めてくださいますか?」
胸が震える。王子は確かに今、この瞬間、私を選んでいた。偽りの名であっても、
幻の存在であっても、彼の視線は私に注がれている。刹那的なものだとしても、その事実が甘美な喜びとなって広がっていく。
「もちろんですわ、殿下」
微笑みながら答えたが、その奥で胸が痛んだ。ミラの純粋な瞳が脳裏に浮かぶ。彼女が持つ真実の未来と、私の儚い立場。その落差が鋭い棘のように突き刺さる。
それでも、王子の瞳を前にしたとき、私はただ──今この瞬間の幸福に酔うしかなかった。
遠くで、重々しい鐘の音が鳴り響いた。大広間の華やかな旋律の合間に混じるその音は、本来ならばただの時を告げる合図に過ぎない。
だが私には──胸を切り裂く冷酷な警鐘のように聞こえた。
──残された時間が、削られていく。
胸の奥がぎゅっと縮み、背筋に冷たいものが這い上がる。
燃え上がった幸福の炎が、氷の刃に突き立てられるように揺らぎ始めた。
思わず唇を噛みしめたその時、耳の奥で艶やかな囁きが響いた。
「仮面の下にあるものを、最後まで隠し通せるかしら?」
ノクスの声──冷ややかで甘美な毒を含んだ声。私は心臓を掴まれたように息を詰めた。震える胸を押さえながら、必死に笑顔を作る。
崩してはならない。この一夜を、幻だと悟られてはならない。
「……サロメ?」
レオン王子の声が私を呼ぶ。
蒼い瞳が、不安をにじませて私を見つめていた。その視線に胸がまた熱を帯び、冷たい痛みと甘美な熱がせめぎ合う。
「ええ、殿下」
私は扇を口元に寄せ、微笑んだ。
「少し……鐘の音が胸に響いただけですわ」
王子は私の手を握り直し、低く囁いた。
「あの鐘の音が、あなたを怯えさせるのですか?」
「怯えなど……いいえ。殿下とご一緒ならば、どんな音も調べに変わります」
言葉を紡ぎながら、扇の奥で吐息が震える。
王子の眼差しが深まり、私を見つめる。
その熱に包まれるほど、胸の奥で冷たい痛みが鋭く疼いた。
「サロメ……」
王子はそっと顔を寄せ、耳元に囁く。
「どうか、この夜を怖がらないでください。私がそばにいます。あなたを守ります」
胸に広がるのは、幸福と焦燥、甘美と恐怖の二重奏。私はその言葉に心を揺さぶられながらも、真実を決して告げられない苦しみに耐えていた。
「……ありがとうございます、殿下」
微笑を崩さずに答える。
その声は震えていたが、王子は気づかなかったのか、静かに頷いて微笑みを返した。
──仮面の下の私を知られるわけにはいかない。
王子の手を再び取りながら、胸を焦がす熱と、冷たく迫る恐怖を抱きしめる。
鐘の余韻が遠ざかる中、私はただ笑顔を保ち続けるしかなかった。
次の幕が開かれる、その時まで。