第七話『星の下で、最初のダンス』
重厚な扉を押し開けた瞬間、燭台の光が雪崩れ込むように流れ込み、私の姿を包み込んだ。
シャンデリアの煌めきが幾千もの星となり、大広間全体に眩い輝きを投げかけている。
楽団の音色が流れる中、人々のざわめきが一瞬、吸い込まれるように静まった。
──そして次の瞬間、波のような囁きが広がる。
「……誰?」
「あんな美女、見たことがない」
「まるで光を纏ったようだ」
貴族たちが驚きと憧れを混ぜた声を洩らし、令嬢たちは扇を口元に当て、瞳を大きく開いて私を見つめていた。
まるで劇場の幕が上がり、主演女優が舞台に現れたかのような視線の集中。かつてアリエットとして受けていた視線とはまるで違う。
そこにあるのは同情や憐れみではなく、純粋な賞賛と羨望。
「ご覧になって、ドレスの揺れ……まるで夜明けの光よ」
「誰の令嬢なのかしら。見知らぬ顔……」 「王子の視線を奪うに違いないわ」
さざ波のように囁きが広がる中、私は背筋を伸ばし、微笑みを浮かべた。
羞恥はもはや遠く、胸の奥を満たすのは熱と陶酔だけ。
足取りは羽のように軽く、裾が広間の光をすくい上げるたび、群衆の視線が追いかけてくる。
その快感は、忘れていた若き日の陶酔を甘美に呼び覚ました。
「美しい……」
思わず誰かの小さな吐息が耳に届く。その言葉に頬が熱を帯び、胸が高鳴った。
──これが、サロメとしての私。
今宵ここにいるのは、皺を纏ったアリエットではない。光そのものを抱く、若きサロメ・ルミエール。私はその名に恥じぬよう、堂々と視線を受け止めた。
胸の奥で鐘が鳴り響くように心臓が高鳴り、全身を喜びが満たしていく。羞恥も恐れも消え去り、ただ“輝く”ことの歓びだけが、私の血潮に燃えていた。
大広間の中央、幾百もの燭台とシャンデリアの光に照らされた青年の姿があった。
蒼い瞳に凛々しさを宿し、立ち居振る舞いには未来の王の風格が漂っている。
レオン・ド・ソレイユ王子。
貴族たちの輪の中で微笑みを浮かべるその姿は、誰よりも気高く、そして優雅だった。
私は人垣の影から、その姿をそっと見つめていた。胸の奥で鼓動が早鐘のように鳴り響き、指先が震える。燭光が彼の肩を照らすたび、若き日のオーギュスト王の面影が重なり、心が揺さぶられる。
けれど今目の前にいるのは、息子であり、ひとりの青年としての彼──レオン王子。
ふと、彼の視線がこちらに流れてきた。
偶然の一瞬。だが、その瞬間に世界が静止したかのように思えた。
楽団の旋律も、周囲のざわめきも、遠のいていく。残されたのは、彼と私の瞳だけ。
蒼い瞳が驚きにわずかに見開かれ、やがて柔らかさを帯びる。
その奥に漂うのは、初めて出会う者への好奇心と、どこか懐かしさに似た影。
まるで失われた夢を探し当てたかのような眼差しだった。
私は唇に微笑を浮かべ、胸に手を当てた。声は出せない。
けれど瞳が語る──私は光、サロメ。あなたが知らない“私”が、ここにいるのだと。
彼の唇がわずかに動く。声は届かないが、問いかけが伝わる気がした。
──あなたは誰だ?
私は瞳で答える。
──名を明かすことはできない。
でも、今宵だけは光としてあなたの前にいる。
視線のやり取りだけで、不思議な会話が交わされていく。王子の頬がわずかに赤く染まり、その変化を見た瞬間、私の胸に熱が広がり、焼かれるように苦しいほどのときめきが走った。
「……殿下……」
声にならない囁きが唇を震わせる。
彼もまた、ただ私を見つめ続けていた。
人垣も、煌めく光も、二人を隔てるものではなかった。互いの瞳が絡み合い、まるで糸で結ばれたように離れられない。
やがて世界が再び動き出しても、胸の奥ではまだ静かな鐘が鳴り続けていた。王子の瞳に映る私は、老いたアリエットではない。サロメとしての私、初めて恋の舞台に立つ女の輝きそのものだった。
楽団の音色がふと途切れ、新しい旋律が広間に流れ始めた。
華やかで軽快なワルツ。弦の音が空気を震わせるたび、胸の鼓動までが高鳴っていくようだった。
人々のざわめきが広がる中、私はまだ王子の瞳に囚われていた。
──そして、その王子が動いた。
レオン王子は人垣をゆっくりと、けれど迷いなく進み出る。
人々が自然と道を開け、背筋を伸ばした彼の歩みに視線が吸い寄せられていく。
蒼い瞳はただひとり、私だけを捉えて離さなかった。
「お嬢様……」
至近に立った王子が、優雅に頭を垂れる。広間のざわめきが波のように引き、空気が張り詰めた。
燭光に照らされた横顔はあまりに気高く、息をするのも忘れそうになる。彼の澄んだ声が静寂に溶けて響いた。
「最初の一曲を、私とともに」
胸が激しく跳ね上がる。心臓が痛いほどに打ち、熱が頬から耳へと広がっていく。けれど、サロメとしての私は怯まない。
優雅な微笑みを浮かべ、扇を静かに閉じると、差し伸べられた手へと自らの指先を重ねた。
──触れた瞬間。
柔らかな温もりが掌に広がり、心臓に火花が散るような衝撃が走った。
息が詰まり、全身を震えが駆け抜ける。
けれどその熱は恐怖ではなく、むしろ甘美な陶酔。王子の瞳に映る揺らぎから、彼もまた同じ熱を感じていると悟った。
「……光栄に存じますわ」
微かに震える声で告げた言葉に、王子の口元が静かに綻ぶ。
群衆の中からどよめきが広がり、令嬢たちの吐息や貴族たちの囁きが波のように押し寄せる。
誰もが、この謎めいた美女と王子が舞う瞬間を見届けようとしていた。
二人は視線を絡めたまま、舞踏の中央へと進み出る。
赤い絨毯を踏みしめる音が消え、代わりに楽団の旋律が一層大きく広がった。
煌めくシャンデリアの下、すべての光が二人を照らし出す。サロメとしての私の物語が、ここから始まろうとしていた。
楽団のワルツが広間に響き渡る。弦の音が軽やかに弾み、金管が華やかに重なり、煌めく音色が天井のシャンデリアを揺らすように空気を震わせていた。大広間の中央、無数の視線を浴びながら、私はレオン王子とともに舞い始めた。
「大丈夫ですか?」
王子が小声で囁く。背を支える手が優しく力を込め、私を導く。
「ええ……殿下の手に導かれれば、恐れるものはありませんわ」
私が答えると、彼の口元にわずかな笑みが浮かんだ。その微笑みは、場の華やかさを超えて、私だけに向けられた特別な光のようだった。
ドレスの裾が旋回のたびに大きく広がり、絹の布が月明かりの波のように揺れる。観衆のざわめきも遠ざかり、世界はただ私と王子の二人だけに絞られていく。
「不思議だ……あなたとこうして踊ると、初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい気持ちになる」
耳元に落とされた囁きに、心臓が大きく跳ねた。アリエットとしての記憶が胸を突き上げ、かつて抱いた幼子の温もりが脳裏を過った。
私は微笑みで誤魔化しながらも、瞳に熱を帯びた想いを隠せなかった。すると王子は、視線を絡めたままさらに問いかけてきた。
「……お名前を伺ってもよろしいですか? どこかで会った気がしてならないのです」
胸が大きく震えた。名を告げれば、それは仮のもの。けれど、ここで沈黙すれば怪しまれる。扇を唇に寄せ、私はそっと微笑んだ。
「……サロメ。サロメ・ルミエールと申します」
自分の口から出た仮の名が、まるで本当に私自身を示すかのように響いた。王子の瞳がわずかに揺れ、唇に驚きと喜びを混ぜた微笑が浮かぶ。
「サロメ……光を意味する名なのですね。ええ……まさしく今宵のあなたにふさわしい」
胸が焼けるように熱くなり、サロメの名が私自身を包み込む。
──アリエットの影は、今は誰の目にも映っていない。羞恥も恐れも消え去り、ただ恋する歓びだけが胸に溢れていた。
レオン王子の腕が私の背を支え、音楽に合わせて軽やかに旋回するたび、世界は眩い光に包まれた。
シャンデリアの光が宝石のように降り注ぎ、視線が絡み合うたびに私は彼の瞳に吸い込まれていく。息をすることさえ忘れてしまいそうだった。
耳元に囁きが落ちる。
「サロメ……あなたはまるで星のようだ。見つめていると、他のものがすべて霞んでしまう」
胸がとろけるように甘く震え、私は扇をそっと下ろし、唇を寄せて囁き返した。
「殿下……私も同じです。いま、私の瞳には殿下しか映っておりません」
彼は微笑み、指先に力を込めて私の手を握る。その温もりが胸に流れ込み、旋律の高まりとともに私の身体は羽のように軽くなった。まるで夜空を舞う星々とともに舞い上がるかのようだった。
「サロメ、もしも時間が止まるなら……この瞬間にしてほしい」
心臓が熱に焼かれる。私は肩に頬を寄せ、震える吐息を重ねて答えた。
「私も……永遠に、このままで」
観衆のため息や拍手は遠くに霞み、世界はふたりだけのものになった。
シャンデリアの光が夜空の星々となって降り注ぎ、天上からの祝福のように二人を包み込む。
彼の頬が近づき、吐息が触れ合うほどの距離で囁きが洩れた。
「サロメ……もっと知りたい。あなたという光を」
胸が焼けるように熱くなり、自然に唇が微笑を形作った。陶酔の中で頷いたその瞬間、私は旋律そのものに溶け込み、王子の瞳の中にだけ存在する光となった。
楽団の旋律が静かに終わりを告げると、大広間は一瞬の沈黙に包まれた。
次の瞬間、拍手と歓声が渦のように巻き起こり、シャンデリアの下に立つ私と王子を讃える。扇を掲げる令嬢たち、感嘆の吐息を漏らす紳士たち、そのすべてが視線をこちらへ注いでいた。
「なんて美しい……」
「王子とあの淑女……あの方は誰?」
「サロメ、と仰っていたわ。光を意味する名だそうよ」
囁きが波紋のように広がり、私の耳に届くたび胸が熱くなる。先ほどまで老いたアリエットとして受けていた冷たい視線が、今は憧れと羨望に変わっていた。その反転が、甘美な蜜のように心を満たす。
レオン王子は私の手を離さず、優しく包み込むように握ったまま微笑んでいた。その瞳は人々の歓声よりも、ただ私ひとりを映しているようで、胸が震える。
「サロメ……まるで夜空の星々があなたに嫉妬しているようだ」
彼の囁きに心臓が跳ね、頬が熱く染まる。私は視線を逸らそうとしたが、王子が私の手を軽く引き寄せ、そっと言葉を重ねた。
「先ほどの踊り……不思議なほどに自然でした。あなたの手が私に馴染んで、まるで何度も踊ったことがあるように感じた」
「……殿下のお導きがあったからですわ。私はただ、その流れに身を委ねただけ」
微笑みながら答えると、王子は目を細め、私の瞳を覗き込む。周囲の喧噪が遠ざかり、二人の世界が再び形を成すようだった。
「いいえ、サロメ。あなたは光そのものだ。私が導いたのではなく、あなたが私を照らしたのだ」
胸が熱に焼かれ、返す言葉を失いかける。けれど勇気を振り絞り、扇を閉じて囁いた。
「もしそうなら……私は幸せです。殿下の隣に立てるだけで」
彼は私の言葉に応えるように指先を絡め、優しく手を握り返した。
「サロメ、これからも……私の隣にいてくれるのですか?」
観衆のざわめき、拍手の音。そのすべてが遠い響きに変わり、胸の奥に甘美な鐘の音だけが鳴り響いた。私は微笑み、王子の問いかけに瞳で応えた。──はい、と。