第六話『仮面の下の決意』
舞踏会の朝、侯爵家の屋敷は出立の支度で慌ただしかった。廊下を行き交う足音、侍女たちの声、馬車の準備を告げる車輪の軋み──すべてが今宵の華やかな舞台を予感させる。
鏡の前に座らされた私は、侍女エリゼの手によって髪を結い上げられていた。
彼女の指先は迷いなく、一本一本の髪を丁寧にすくい取り、櫛が髪を滑る音が規則正しく響く。
その律動が心を落ち着かせるどころか、かえって胸を重くする。映し出されるのは、もう若き日の社交界の花ではなく、目元に刻まれた皺と、疲れを隠せない女の顔だった。
「お嬢様、髪に少し銀糸を編み込んでみては? 夜会の光を受ければ映えます」
エリゼは柔らかく言いながらも、鏡に映る私の顔をじっと見つめた。
その瞳の奥には、言葉にしない探るような光が宿っている。
私は扇で口元を隠し、わざと軽やかに笑ってみせた。
「いいわね、エリゼ。あなたの感性は信じているもの」
「……はい」
答えながらも、彼女の指先がわずかに震えたのを感じた。
長年仕えてきた忠実な侍女──けれど今の彼女は、私の秘密の片鱗を感じ取っている。
人形の囁き、夜な夜な部屋に閉じこもる習慣、そして手鏡を手放さぬ私の仕草。
すべてが小さな疑念の種となり、彼女の心に芽吹いているのだろう。
「エリゼ……あなたには感謝しているわ。私のすべてを任せられるのはあなただけ」
私はあえて優しく声をかけた。けれどその声は、どこか自分を守るための鎧のようだった。彼女の瞳に見透かされることが怖かった。
「お嬢様……今日はサロメ様はおられないのですね」
「ええ、いないわよ……まだね……」
エリゼの声は震えていた。
けれど結局、深く頭を下げて言葉を飲み込む。その沈黙は、忠誠か、それとも警戒か。私には見分けがつかなかった。
絹のドレスが肩に掛けられる。
かつては誇りだったはずの衣装の煌めきが、今は痛ましいほどの虚しさを伴う。
深い色合いも刺繍の輝きも、若き頃の肌には映えただろう。けれど今は──。
私は視線を落とし、鏡に映る自分から目を逸らした。心臓が軋む。あの夜会でレオン王子の姿を見たとき、胸を貫いた痛みが甦る。彼の眼差しは未来を映していた。だが私の瞳には、過ぎ去った時間の影しか宿せない。
──それでも。
胸の奥に隠しているものがある。
銀の手鏡。あれさえあれば、舞踏会場に着き、人目を避ければ、私はサロメに戻れる。たとえ半日だけでも、あの煌びやかな舞台で“光”として輝けるのだ。
「お嬢様、顔色が……」
エリゼがそっと声をかける。私は瞬きをし、笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。少し、緊張しているだけ」
「……そうでございますか」
エリゼは納得したように見せかけて頭を下げたが、瞳の奥に潜む疑念の光は消えなかった。彼女の忠誠心と探究心、そのどちらが勝つのか──いずれ私を試す日が来るのかもしれない。
心臓が鳴り響く。だが、その音をかき消すように、鏡の奥から声が滲み出した。
──「舞台の幕はすぐに上がるわ」
ノクスの囁きが耳朶を撫でる。甘やかで冷たい声。その響きは、私の不安を煽りながらも、同時に熱へと変えていく。胸の奥で疼く恐怖が、期待と入り混じって震えを生む。
私はそっと目を閉じ、胸に両手を置いた。鼓動が早まるのを感じながら、小さく呟く。
「……ええ。必ず──」
その言葉は、自分自身への誓いであり、鏡の向こうに潜む魔女への返答でもあった。
石畳を叩く蹄の音が、夜の静寂を破るように響いていた。
馬車はゆっくりと揺れ、窓の外に広がる街並みを流していく。
薄明かりの灯火が点々と連なり、その先にある煌めきが、舞踏会場へと導く灯のように瞬いていた。
私は窓辺に身を寄せ、夜気を透かして流れる景色を眺めていた。
胸の奥には熱が募り、期待が甘い疼きとなって全身を包み込む。
サロメとして会場に現れる瞬間を思い描くと、頬が自然と赤く染まっていく。
無数の視線が私を捉え、囁きとざわめきが広がり、レオン王子の蒼い瞳がまっすぐにこちらを射抜く。
その光景を夢想するだけで、呼吸が浅くなる。
彼がゆっくりと歩み寄り、差し伸べられる手。
その温もりに触れ、私の指先が震える。
楽団の旋律が流れ出し、彼と私が舞踏の渦に包まれていく。
回るたびにドレスが揺れ、王子の瞳だけが世界のすべてになる。──その甘美な幻想は、私の心を酔わせ、現実を忘れさせるほどだった。
「……レオン殿下……」
思わず名を囁いた。耳に自分の声が響くと同時に、胸の鼓動がひときわ強く鳴り響く。夢の中で彼の手を握る感覚さえ確かに感じられた。
しかし──ふと目に入った窓のガラス。その暗がりに映し出されていたのは、サロメではなく、四十一歳の私だった。頬を覆う細かな皺、疲れの影を帯びた目元。夢で描いた麗しき姿とは似ても似つかぬ現実。
胸が凍りつき、甘い熱が一瞬で冷え込んでいく。まるで鋭い刃で切り裂かれたような痛みが走り、呼吸が乱れる。私は扇を握りしめ、布地が指先に食い込む痛みで己を保とうとした。揺れる馬車の振動が、現実を容赦なく突きつけてくるように感じられる。
──それでも、諦めはしない。
バッグの奥には銀の手鏡がある。会場に着き、人目を避けた片隅でその鏡を覗けば、私はサロメに戻れる。たとえ半日だけであろうと、その時間があれば夢を現実に変えられるのだ。
私は窓に映る老いた自分を見据えた。震える唇がかすかに動く。
「……あと少しで、私は……」
その呟きは、馬車の揺れにかき消されて誰の耳にも届かない。だが胸の奥では、甘美な期待が火花のように散り、燃え盛る炎となって舞踏会場へと私を突き動かしていた。
馬車の扉が開かれると、夜気とともに燭台の光が雪崩れ込むように流れ込み、頬を照らした。
煌びやかな宮廷の大広間の入り口は黄金の扉で縁取られ、幾百もの蝋燭が揺れ、星々のように瞬いている。楽団の音色が柔らかく流れ、すでに多くの貴族が会場を満たしていた。
「行くぞ、アリエット」
兄シャルルの低く落ち着いた声に促され、私は彼の腕に寄り添った。
赤い絨毯を一歩ずつ踏みしめ、扉が開かれる。呼び上げられる私の名と共に、ざわめきが波のように広がっていった。
──視線が一斉に注がれる。好奇、羨望、そして冷笑。言葉にされぬまでも、その眼差しは雄弁だった。
かつて社交界の花と呼ばれた私を知る者ほど、老いた今の姿に落胆を隠さず、「美も歳月には勝てぬ」と突きつけてくる。肌の艶を失った頬、首筋に刻まれた皺……それらが残酷に浮き彫りにされていくようで、扇を持つ手が震えた。
「まあ……これはこれは。お久しぶりね、アリエット」
絹を引き裂くような声音が耳に届いた。
振り向けば、そこにはカトリーヌ夫人がいた。
かつて私と美を競い合った女。
今では貴婦人たちの中心に立ち、ゆるぎない地位を得ている。艶やかな唇に笑みを浮かべ、その奥の瞳に毒を宿していた。
「懐かしいわ……あの頃、あなたと競った日々を思い出すと。けれど時というのは不思議ね。花は散り、跡に残るのは枯れ葉だけ。若き日のあなたを知るからこそ、今の姿がますます……」
夫人はわざと扇で口元を隠し、意味ありげに首を傾げた。
周囲の令嬢たちが小さく笑いを洩らす。
その笑いが刃のように胸を抉る。
羞恥が込み上げ、視界が霞む。
私は慌てて自らの扇で顔を覆い、震える唇を隠した。
「……ご機嫌よう、カトリーヌ夫人。時の流れは誰にでも平等に訪れるものですわ」
必死に絞り出した言葉は、かすれた声となって耳に届いた。けれど彼女は涼やかに肩を揺らし、また一歩前へ進み出る。
「ええ、もちろん。でも──その流れを受け入れられるかどうかは、人によって違うのよ」
その一言が、氷の刃となって突き刺さった。私は俯き、羞恥と怒りに胸を締め付けられた。
だが心の奥底で、別の熱が燃え上がる。──あと少し。人目を避け、手鏡を覗けば、私はサロメになる。すべてが変わるのだ。
羞恥に震える体を抑え込みながら、私は自分に言い聞かせた。いまに見せてやる──光を取り戻した私を。
舞踏会の喧騒から逃れるように、私は人目を避けて化粧室へと足を運んだ。広間の奥にある小部屋は、厚い扉に守られた静寂の世界だった。壁に並ぶ燭台の炎が淡く揺らめき、大理石の床に影を落とす。香油の残り香がほのかに漂い、まるで時が止まったような空間に、私の荒い呼吸だけが響いていた。
私はゆっくりとバッグを開き、銀細工の手鏡を取り出す。
精緻な装飾が光を弾き、冷ややかな重みが掌に伝わる。胸が高鳴り、指先がかすかに震えた。鏡に映ったのは、皺を帯び、疲れを隠せぬ女の顔──四十一歳の私、アリエット・ド・ヴァロワ。
「……この姿では、もう……彼に笑いかけられない」
小さく洩れた言葉が、冷たい石壁に吸い込まれていく。胸の奥を鋭い痛みが突き、心臓が強く脈打った。
レオン王子の眼差しを思い出すだけで甘美な熱が湧き上がるというのに、この老いた顔で向き合うなど──想像するだけで絶望が押し寄せる。
そのとき、鏡の奥がふわりと波打った。黒い影が滲み広がり、甘やかな声が室内を満たす。
「時間は半日だけ。鐘が鳴るまでに戻りなさい。忘れたら──崩れるのは、鏡だけではないわ」
ノクスの囁きだった。柔らかくも冷酷で、まるで鋭い爪が心を撫でるようだった。
背筋を冷たい震えが駆け抜ける。
だがその恐怖の奥に、逆に強烈な熱が宿るのを感じる。私は唇を噛み、震える呼吸を整えた。
「ならば、その半日で夢を掴む」
その宣言は、恐怖に縛られた心を断ち切る刃のように響いた。
瞬間、手鏡の表面に細やかな波紋が広がり、光が滴るように流れ出した。
揺れる燭火が鏡に吸い込まれ、映る自分の姿が歪み、溶けていく。
皺は消え、肌は艶を取り戻し、瞳は星明かりを宿したかのように輝いた。
紅をさした唇は自信に満ち、頬は薔薇色に染まる。そこに浮かび上がったのは、かつての私──いや、サロメ・ルミエール。光を意味するその名の通り、鏡の中で彼女は鮮やかに輝いていた。
私は震える指で頬を撫でた。滑らかな肌の感触に胸が熱くなり、目の奥に涙が滲む。失われたと思っていた時間が、再びこの掌の中にある──その事実が甘く、そして残酷に思えた。
「……これで、あの方に……」
言葉を最後まで紡ぐ前に、鼓動が高鳴り、全身が熱に包まれた。瞼を閉じ、深い吐息を洩らす。次に目を開いたとき、そこにいるのはアリエットではない。サロメ──若さと美を取り戻した私自身だった。
重厚な扉の向こうには、音楽と人々のざわめきが広がっている。幕が上がる刹那のような緊張と陶酔が、私の全身を支配していた。