第五話『舞踏会の招待状』
鐘の音が胸の奥で遠ざかると同時に、鏡面に揺らめく光が消えた。身体が重くなり、指先から若さの熱が抜けていく。
視界に広がったのは、皺を帯びた頬と、疲れを隠せない四十一歳のアリエットの姿だった。
「……っ」
息が喉に引っかかり、鏡から目を背けたくなる。つい先ほどまで花屋で微笑みを向けられ、赤いバラを抱きしめていたサロメの姿が、まるで幻のように遠ざかっていく。
頬の張りも、艶めく髪も消え、残されたのは現実の私。胸が締めつけられるほどに苦しい。
その時、鏡の奥からノクスの囁きが流れ込んだ。
「次は──人前で輝く番よ」
意味深な声に、心臓が高鳴る。まだ夢の続きを許されるというのか。私は扇を膝に握り、震える息を吐き出した。
翌日、兄シャルルが部屋を訪れた。
背筋を伸ばした姿はいつもながら威厳に満ち、手にした銀の封筒が不穏な予感を漂わせていた。無骨な指で封を切り、静かな声で告げる。
「アリエット。王家主催の舞踏会から招待が来ている。今回は特別な催しで、多くの貴族が顔をそろえるそうだ。家の名に恥じぬよう、お前も出席すべきだ」
差し出された封筒を受け取る指先が震える。
蝋の印章は冷たく硬いのに、心臓の鼓動は熱を帯びていた。
「舞踏会……」
震える声で呟いた瞬間、胸の奥にざわめきが走る。
封筒を開き、記された名前を目で追う。そこに刻まれていたのは──レオン王子。
息が止まり、鼓動が乱れる。昨夜の夜会で見た美しい青年。その姿が脳裏に鮮やかに蘇った。かつて腕に抱いた幼子が、今やあの凛々しい瞳をもつ王子へと成長している。
「……レオン殿下も……」
小さく洩れた言葉は、誰にも届かないほどの囁き。だが自分の胸を突き刺すには十分だった。
そのとき、部屋の片隅に控えていた侍女エリゼの瞳がこちらを捉えていた。
普段は静かな彼女の眼差しが、わずかに探るような色を帯びている。
「お嬢様……お体は大丈夫でしょうか。最近、どこかお疲れのように見えます」
心配する声色に隠れた探り。私は微笑でごまかし、扇で口元を覆った。
「ええ、大丈夫よ。ただ少し……考え事が多いだけ」
エリゼは深く頭を下げたが、その瞳の奥にある警戒心は消えなかった。
人形の声、秘め事の噂──すでに彼女は何かを感じ取っているに違いない。
兄シャルルの声が重く落ちる。
「家の立場のためにも、必ず出席するのだ。舞踏会を欠席すれば、無用の憶測を招くだろう」
私は小さく頷くしかなかった。だが心の奥では、別の熱が芽吹いていた。もし──もしサロメの姿で舞踏会に出られるなら。レオン王子の瞳を正面から見られるのなら。
その想いは、胸の奥で静かに膨らみ、私の頬を赤く染めていった。
夜の帳が下り、部屋の中は蝋燭の灯りだけに照らされていた。
机の上に置かれた招待状は、封を切られたまま微かな光を受けて輝いている。
その文字を何度も追いながら、私は扇を握りしめた手を震わせていた。──王家主催の舞踏会。そこには確かに、レオン王子の名が記されていた。
胸の奥が焼けるように熱い。
彼の瞳を思い出すたび、甘い衝動が溢れて止まらない。
だが同時に、老いた自分が鏡に映る姿を思い返すと、心臓を冷たい手で掴まれたように苦しくなる。
その時、鏡の奥がふわりと波打った。
黒い影が浮かび上がり、ノクスが姿を現した。
妖艶な唇が弧を描き、私を覗き込む。
「舞踏会ほど、恋の舞台はないわ」
囁きは甘美でありながら、背筋を震わせる冷たさを含んでいた。私は鏡の中のノクスを見返し、喉を詰まらせながら声を漏らす。
「……怖いの。私が行けば、何かが崩れてしまう気がして」
「ふふ……怖がるのは結構。でもね、アリエット。恐怖は恋を輝かせるスパイスよ」
ノクスは指先で鏡面をなぞる。
その軌跡に波紋が広がり、私の胸の奥で甘いざわめきが膨らんでいく。
「思い出してごらんなさい。あの街で浴びた視線を。花束を差し出されたときの心の震えを。あなたはまだ、人前で輝ける」
「でも……制限があるわ。半日しか……」
「ええ、その通り。だからこそ、燃えるのよ。時間が限られているから、ひとつの仕草も、ひとつの笑みも、かけがえのない煌めきになる」
私は唇を噛みしめた。恐怖と期待がせめぎ合い、胸の奥で鐘の音が鳴り響いているようだった。
「……私、行くわ。サロメとして」
言葉にした瞬間、ノクスの瞳が愉快そうに細められる。
「それでこそ。恋を語り、恋に酔う──そのためにあなたはサロメになるのだから」
「でも、もし時間が来てしまったら……人々の前で老いた姿に戻ってしまったら……」
「その恐怖を抱いたまま舞うのよ。仮面の下に隠した心臓の鼓動こそが、最も甘美な物語を紡ぐのだから」
ノクスの囁きは花びらのように舞い散り、部屋の空気を満たしていく。その声に絡め取られるたび、私の恐れは熱に溶け、決意へと変わっていった。
私は招待状を両手で掴み、唇に近づける。赤く染まった頬を蝋燭の光が照らす。
「これが……運命の始まり」
鏡の奥でノクスが艶やかに唇を歪め、低く囁いた。
「仮面をかぶるほど、恋は甘美になるのよ」
その声が夜の静寂に溶け、私の胸を強く震わせた。
夜、蝋燭の灯りがゆらゆらと揺れ、部屋の壁に長い影を伸ばしていた。
私は椅子に腰を下ろし、目の前の大きな姿見をじっと見つめる。蝋燭の炎が鏡面に反射し、淡い光が揺らめくたびに、自分の心臓まで波打っているように思えた。胸の奥が妙に高鳴り、言葉を飲み込む唇が乾いていく。
「ねえ、ノクス……ひとつ聞きたいの。この鏡のことなのだけれど、やっぱりここ、この大きな姿見の前でしか、私はサロメに会えないの?」
問いかけた瞬間、鏡の奥が淡く揺らぎ、漆黒の影が滲むように広がった。そこからノクスが現れた。彼女の紅い唇は笑みを含み、瞳は夜の星のように冷ややかで艶やかだった。
「いいえ、違うわ」
ノクスはゆっくりと首を傾げ、声を甘く響かせた。
「鏡の前なら、どこでだって私やサロメに会える。肝心なのは──約束の時間までに戻れるかどうかよ」
「じゃあ……舞踏会の化粧室の鏡の前でも?」
私は胸の奥を高鳴らせながら問い返す。もし本当に可能なら、どれほど楽になるだろうと一瞬思った。
ノクスは唇を歪め、いたずらを企む少女のように微笑んだ。
「もちろんよ。ただし……他の人に見られないことね。若い娘がいきなり中年に変わったら、誰だって腰を抜かすでしょう?」
その声に、私の背筋がぞくりと震えた。想像しただけで頬が熱くなる。
「それなら……手鏡でもいいのかしら」
思わず口にすると、ノクスは笑みを深め、わざとらしく肩をすくめた。
「ええ、いいのよ。自分で用意すればいいのじゃないかしら」
私は思わず息を呑んだ。──それなら、最初から手鏡を持って屋敷を出て、どこか人目のつかない場所でサロメに入れ替われば良かったのではないか。そう思った瞬間、胸の奥で苛立ちと戸惑いが入り混じる。
「……あなたは私を試したのね」
(侍女に同性愛と言う必要も無かったし、噂にもならなかった)
かすれる声でそう告げると、ノクスは愉快そうに目を細めた。
「だって、覚悟って大事だと思わない?」
「覚悟……」
「そうよ。最初から楽な道を示したら、あなたは真剣になれなかったでしょう? 鏡の前で震え、涙を呑んで選んだその一歩こそが、あなたを本気にさせたのよ。それにこの屋敷をサロメがウロウロしていても周りはそれが日常だと思ってるだろうしね」
彼女の言葉に胸がざわめく。
悔しさと納得が同時に押し寄せ、唇を噛んだ。ノクスは楽しげに笑みを浮かべ、その姿を花びらが散るように薄めていく。
「さあ、アリエット。次はどんな選択をするのかしら。……楽しみにしているわ」
囁きを残し、ノクスは鏡の中に消えた。残された私はしばらく鏡を見つめ、手鏡に映る自分の姿を想像しながら、胸の奥を熱く締めつけられていた。