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第四話『初めての外出』

 朝の光が窓辺から差し込み、薄紅色のカーテンを透かして床に模様を描いていた。鏡の前に立つ私は、若きサロメの姿をしたまま、深く息を吸い込む。頬に触れる肌は滑らかで、体の内側から満ちるような力を感じる。けれど背後──鏡の奥には仮死のように眠り続けるアリエットが横たわっている。私はその存在を忘れることができなかった。


『今日こそ外へ』

 囁くようなノクスの声が、耳の奥に響く。

 甘やかで残酷な声に背中を押されるたび、心臓は不安と期待で揺さぶられる。


 扉を開けて廊下に出ると、屋敷の空気がどこか変わっているのを感じた。

 空気の流れが重く、使用人たちの視線が妙に鋭い。

 特に侍女エリゼは、以前よりも長く私を見つめることが増えた気がする。

 勿論、侯爵家の令嬢としてのアリエットと認識しての目ではない。お嬢様についた新参者としての目だ。

 彼女の瞳には、探るような光が宿っている。


 あの人形の声を聞いた夜からだ。──秘め事の声と、ベッドのきしむ音。すでに彼女の報告が兄シャルルの耳に届いているのではないかと、胸が冷たくなる。


 廊下を歩けば、背後で小さなささやき声が生まれる。

「あれが噂の……かなり若くて綺麗よね」

「色が白くて……いつから屋敷に……」


 ひそひそと交わされる言葉が、私の耳を刺す。

 羞恥と恐怖で足がもつれそうになるが、顔には笑みを貼り付けるしかない。

 若さをまとった姿は、誰の目にも新しい光を宿して映っているのだろう。

 けれどその背後には、秘密を暴かれるかもしれない影が忍び寄っている。


 屋敷の中に漂う噂と、使用人たちの探るような視線。そのすべてが胸に重くのしかかるはずなのに、サロメとなった私の身体の内側では、別の熱が渦を巻いていた。


 若さを得た身体は気持ちは軽く、歩くだけで裾が舞い、胸の奥から小鳥が羽ばたくような高鳴りが響く。

 鏡に映る自分の姿を見れば、失ったと思っていた輝きがそこにあった。頬が自然に赤らみ、目尻には光が宿り、まるで恋をしている娘のように見える。


 ──この姿で外に出たい。人前に立ちたい。


 窓の外で揺れる木々の葉は陽光を浴びてきらめき、まるで私を誘っているようだった。

 扉の向こうには世界が広がっている。舞踏会の煌めき、視線のざわめき、そして──彼の瞳。思い浮かべるだけで胸が焼けるほど熱くなる。


 だが理性は恐れを告げている。

 アリエットの意識が囁く。秘密が露見すれば全てが崩れる、と。

 鏡の奥で眠る本来の自分が、冷ややかに見つめている気がした。


「……この身体なら、もう一度、誰の目にも咲き誇れるのに」

 呟いた声は、驚くほど明るく、弾んでいた。若さに満ちた声が自分の口から響くことに、私自身が最も驚いていた。


 けれど胸の奥では冷たい影が忍び寄る。契約の制約──半日しか与えられない若さ。昼の鐘か夜の鐘が鳴れば、私は再び老いたアリエットに戻る。


 その残酷な時の砂時計が、背後でひたひたと音を立てているようだった。  

 どれほど外へ憧れても、無情に流れ落ちていく砂の粒を止めることはできない。


 欲望と恐怖が心を引き裂き、私は両手を胸に当てた。熱く脈打つ鼓動は、確かにサロメのもの。

 けれどその影に、鏡の奥で眠るアリエットの気配がつきまとっていた。

 同じ自分なのに人格が分離したような不思議な気持ち。


「行きたい……でも、戻れなくなったら……」

 囁きは自分でも聞き取れないほど小さかった。 窓から射す光はあまりにも眩しく、私を誘惑するように床を照らしていた。


 私はカーテンの裾を握り締め、外の光を見つめた。揺らぐ心は、まだ答えを見つけられないままだった。


 窓辺に立ち、陽の光を浴びても胸の衝動は抑えられなかった。

 サロメの姿を纏った私には、屋敷の中だけでは到底満足できない。

 心のどこかで──このままでは魔女ノクスにまた怒られ、機嫌を損ねてしまうに違いないと分かっていた。


(……一度は屋敷の者にサロメの姿を見せた。ならば、もう隠れる必要もないわ)


 そう心の中で呟くと、決意は雪崩のように大きくなった。まだ時間は半分ほど残っている。街の花屋まで足を運び、すぐに戻れば大丈夫──そう自分に言い聞かせ、私はついに屋敷を飛び出した。


 街路に出た瞬間、空気が違った。

 石畳に響く靴音、行き交う人々のざわめき、焼きたてのパンの匂い。

 五感すべてが刺激され、胸の奥に甘い熱が広がっていく。頬にあたる風は柔らかく、まるで歓迎してくれるかのようだった。


 しかし──視線を感じる。明らかに男たちの眼差しが、私を追っていた。気の弱い者は声をかけてはこないが、見ていないふりをしながら確実に私を意識している。その仕草の一つひとつが、若き日のアリエットが街を歩いたときに浴びた視線と重なった。


(……そうね、若いって、やっぱり素晴らしい)

 胸の奥がふくらみ、自然に笑みがこぼれる。


 すると、石畳の角から現れたひとりのハンサムな男が、軽く帽子を傾けて声をかけてきた。

「お嬢さん、どうです? このあとお茶でも一緒にいかがかな」


 その口ぶりには自信と軽薄さが入り混じっていた。私はふと足を止め、紅い唇に小さな笑みを浮かべる。

「ごめんなさい、約束があるの」


 艶を帯びた声でそう返すと、男は目を瞬き、肩をすくめた。

「そいつは残念だ……」

苦笑いを浮かべつつも、未練がましい視線を残して立ち去る。

 その後ろ姿に、私は胸の奥で小さく笑った。軽やかにスカートの裾を揺らしながら歩くと、道すがらの視線はますます熱を帯びていった。


 やがて花屋にたどり着くと、店先に立っていた主人が私を見て目を丸くした。

 「なんと……お嬢様、なんてお美しい……! どうぞ、こちらを」


 彼は赤いバラの束を抱え、数本を抜いて私に差し出した。

「サービスでございます。こんな美しい方に差し上げぬわけにはいきません」


「まあ……ありがとうございます」

 頬が熱くなり、受け取ったバラを胸に抱く。花弁の香りが甘く漂い、心臓が早鐘を打つ。


 やはり若さと美貌は、何よりの武器。世界そのものが、私の一歩一歩に合わせて華やいでいるように思えた。


 屋敷の自室に戻ると、窓の外では夕陽が赤く沈みはじめ、壁に伸びる影が長くなっていた。

 机の上に置いた花束の赤いバラが、まるで燃えるように光を受けて輝いている。

 胸の奥では、まだ街のざわめきが生きていた。視線を浴び、声をかけられ、花束を抱きしめた瞬間の喜びが何度も蘇る。


 その時──鏡の面が淡く波打ち、そこからノクスが現れた。

 黒い髪を揺らし、艶やかな笑みを浮かべながら、じっとこちらを覗き込んでくる。


「ふふ……ずいぶん浮かれているようね」

「聞いてノクス! 本当に、本当に夢みたいな時間だったの!」

 私は思わず駆け寄り、鏡の前に身を寄せた。少女のように頬を紅潮させ、胸の中の喜びを隠しきれなかった。


「街に出たの! 石畳を歩いただけで、みんなが私を見てくれるのよ。あの視線……昔と同じ。でも、もっと熱くて、もっと強いの!」

「まぁまぁ……声の弾みで分かるわ。で、誰か素敵な出会いでもあった?」

「ええ! プレイボーイみたいな男が、『お茶でも』なんて声をかけてきたの!」

「まぁ! それで? まさか、断ったの?」

「もちろん! 『約束があるの』って軽くあしらったら、肩を落として行ってしまったわ。あの顔ったら、面白かったんだから!」


 私が笑いながら話すと、ノクスは指先で唇を覆い、くすくすと笑った。

「ふふ、娘時代に戻ったみたいね。あなたの頬の色、瞳の輝き……まるで十七の乙女のようだわ」

「それだけじゃないの! 花屋の主人まで、私を見て目を輝かせて、バラをサービスしてくれたの! 『美しい方に差し上げないわけにはいきません』って!」

「まぁ……若さと美貌は、人の心を簡単に動かすもの。あなたが一番よく知っているでしょう?」

「ええ! 本当に幸せだったわ! ああ、あの視線……あの空気……忘れられない!」


 私はバラを胸に抱きしめ、くるりと鏡の前で回ってみせた。ドレスの裾がふわりと広がり、まるで舞踏会にいるかのように華やかに揺れる。


 だが、ノクスの瞳がふっと冷たくなった。

「けれど、サロメ……浮かれてばかりではいけないわ」

「え……?」

「その喜びの裏には、いつも影がある。時間は半分も残っていないのに、あなたは夢に酔いすぎている。忘れないで、これは借り物の若さよ」

「……わかってる。でも、今だけは──」

「違うわ。分かっているなら、もっと慎重に振る舞いなさい。甘美な時間ほど脆く、壊れやすいものはないのよ」


 その声は冷ややかでありながら、どこか優しさも滲んでいた。私は唇を噛みしめ、バラの花束をぎゅっと抱き寄せた。


「……でも、やっぱり幸せなの。こんな気持ち、もう二度と味わえないと思っていたから」

「ふふ……その言葉、まさに恋物語の始まりね。いいわ、その熱を忘れないで。恋を語るあなたは、何より輝いているのだから」


 ノクスの囁きが、花びらのように広がって部屋を満たした。私は頬を赤らめたまま、少女のようにはしゃぐ気持ちを抑えきれず、笑みをこぼした。

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