最終話『灰と鏡──断罪の果てに』
広場の中央には、巨大な杭とその足元に積まれた藁、そして屋敷から運び込まれた姿見の鏡が鎮座していた。朝の光が雲の切れ間から差し込み、その光が杭と鏡の枠を淡く照らし出している。石畳の上には既に無数の足跡が刻まれ、群衆のざわめきが大気を震わせていた。人々の目が一点、壇上の王と私へ注がれているのがわかる。
オーギュスト王が高い壇に立ち、王冠の影を長く落としていた。彼の声が広場全体に響く。「サロメ・ルミエール、あるいはアリエット・ド・ヴァロワ。お前の罪をここに読み上げる──」
罪状がひとつひとつ読み上げられるたびに、群衆がざわめき、私の胸に冷たい針が刺さる。主な罪はミラ嬢を魔女の生贄にしたことと王家をたぶらかした事だった。
鉄の枷で両手を固定され、私は巨大な鏡の前に立たされていた。鏡の表面が光を反射し、私自身の姿と、背後にいる群衆を同時に映している。
目を凝らすと、群衆の中にレオン王子の姿が見えた。
マントが朝の風に揺れ、その瞳は遠くからでも私を射抜いているのがわかる。胸の奥がひゅっと縮み、心臓が不自然に早く鳴った。エリゼも群衆の端に立ち、唇を噛んでいる。両手を胸元で強く握りしめ、その肩がかすかに震えていた。
そして、兄の姿もあった。憔悴した顔色、肩を落とし、まるで別人のように老け込んで見える。侯爵家はお家を潰されなかったが子爵に格下げされた──その知らせを聞いた時、兄の顔に浮かんだ絶望を私はは想像して申し訳なく思った。
オーギュスト王の声がなおも響く。罪の言葉が積み重なるたびに、空気の重みが増していく。私は鏡の前に立ち尽くし、胸の奥でそのすべてを受け止めようとしていた。鉄の冷たさが皮膚に食い込み、藁の乾いた匂いが風に乗って鼻先をかすめる。広場のざわめきの中で、王子の瞳と兄の疲れた顔とエリゼの震える肩が、カトリーヌ夫人の冷ややかな視線。まるで断罪のカルテットのように目に焼きついていた。
壇上に立つ私の前で、巨大な鏡が鈍く光っていた。朝の風が杭と藁の匂いを混ぜて鼻先に送り込み、群衆のざわめきが遠い潮騒のように響く。その鏡の中に映っているのは、老化していない──あの頃のままの四十代のアリエット。頬にまだ血色があり、髪にも艶がある。まるで時間がそこだけ止まっているかのようだった。
(なぜ……老化していないの……またノクスに騙された……?) 胸の奥がざらりとひりつく。心臓が早鐘のように打ち、手首が冷たく汗ばむ。鏡の奥から微かな笑い声が響いた。ノクスの声だ。「くすくす……見せてやりなさい、あなたの真実を……」
処刑執行人が壇上に上がってきて、硬い声で命じる。「供述を証明せよ。今ここで、入れ替わりを示せ」
その言葉が胸の奥に突き刺さる。恐怖と諦めの間で揺れる私の視線が、群衆の中のレオン王子の瞳に捕らえられた。青い瞳がまっすぐに私を射抜き、風に翻るマントが朝日に光っている。
(今なら……まだ逃げられる……? それとも……) 自分に問いかけても、答えは返ってこない。鉄枷の中で指先が微かに震え、喉の奥がひりつく。ノクスの囁きがさらに近くなる。「さぁ、選びなさい……その手で未来を……」
私はゆっくりと鏡に手を伸ばした。冷たい風が壇上を横切り、髪を揺らす。鏡の表面が淡く波打ち、青白い光が指先を包む。背後で群衆の息がひとつに止まったような気がした。恐怖と諦めと、かすかな解放が胸の奥でひとつに絡み合い、私はもう逃げられないことを悟っていた。
鏡の表面がひときわ強く波打ち、私の足元から冷たい光が立ちのぼった。次の瞬間、私は鏡の中へと吸い込まれ、視界が青白く反転する。身体が軽くなり、音も匂いも遠のいていく。振り返ると、そこには広場の壇上が歪んだ水面のように揺れていた。
鏡の奥から外を覗くと、私の代わりにアリエットが現実に戻っているのが見えた。彼女は四十代の姿のまま、鏡の前に立っていた。だが、その足が地を踏んだ瞬間、時間が一気に押し寄せるように彼女の身体が変化し始めた。
頬がみるみるうちにこけ、髪の色が灰色に褪せ、肌から水分が失われていく。肉が音もなく崩れ落ち、骨が露わになり、そして粉々の灰へと変わっていった。息をのむ群衆の声が、遠い海鳴りのように響く。誰かが悲鳴をあげ、その声が連鎖して広場全体がざわめきに包まれた。杭に積まれた藁が風に揺れ、そのざらついた音までが奇妙に鮮明に聞こえた。
王子の顔が蒼白になり、唇がかすかに動く。「……アリエット……?」その声は届かず、ただ空気に溶けた。エリゼが口元を押さえ、兄は膝から崩れ落ちそうになっているのが見えた。
鏡の奥の私は、そのすべてをスローモーションのように見ていた。外の世界が水の向こうで遠く、光がゆらゆらと屈折している。胸の奥で小さな声が震える。(これが……終わり……?)
私の手は鏡の内側に触れたまま、何もできずに震えている。光と灰と悲鳴が渦を巻き、アリエットの形だったものが風に散ると同時に、世界からひとつの影が消えたのを感じた。
アリエットの灰が風に散ったその瞬間、巨大な姿見がひび割れ、無数の亀裂が光のように走った。鈍い音とともに鏡面が粉々に砕け、細かい破片が陽光を反射して宙を舞う。残ったのは厚い銀枠だけで、空虚な長方形が壇上に取り残されていた。風が杭と藁の匂いを巻き上げ、広場の空気が一瞬、凍りつく。
「サロメ!」 レオン王子の声が広場全体に響き渡った。マントがはためき、彼の瞳が虚ろな枠の中を必死に探している。だが、そこにはもう何もなかった。鏡の中の世界は虚無に変わり、音も匂いも色も奪われていた。
エリゼは両手で口元を覆い、涙に濡れた目で枠を見つめる。兄は膝をつき、両肩を震わせながら地面に視線を落とす。群衆はどよめき、恐怖と混乱が波のように広がり、誰かが祈るように額を押さえ、誰かが後ずさりしながら呻き声を漏らした。
壇上のオーギュスト王の顔に、わずかな驚きと苛立ち、そして言葉にできない何かが過った。王冠の影が長く伸び、その影が灰の跡を覆うように揺れている。広場全体が風に撫でられ、藁がさらさらと舞い上がる。
レオン王子の叫びがもう一度、枠だけになった鏡へ突き刺さった。「サロメ……!」その声は空へ吸い込まれ、反響の代わりに冷たい静寂が戻ってくる。銀の枠だけがかすかに揺れ、朝の光を淡く反射していた。
(すべてが……無になった……) 胸の奥でその言葉が沈む。風が髪を撫で、灰の匂いと鉄の匂いが混じり合う中で、私はもういない世界を想像するしかなかった。壇上には銀枠と藁の残骸だけが残り、時の針がゆっくりと終わりへ向かう音が聞こえるようだった。
■
夜の帳が降り、カトリーヌ夫人の寝室には燭台の炎がひとつだけ揺れていた。天蓋付きのベッドに敷かれたサテンのカバーが淡く光り、壁にかけられた絵画の金の縁が微かに反射する。厚いカーテンはすでに閉じられ、外の風の音すら届かない。代わりに部屋の中央に置かれた大きな鏡が、青白い光を帯びてじわりと脈打っていた。
カトリーヌ夫人はその鏡に背を向けたまま、ゆっくりと髪をほどいた。豪奢な巻き髪が肩に落ち、ドレスの襟元から漂う香水の香りが部屋の空気に溶ける。胸の奥で何かがざわつき、背筋にかすかな冷たいものが這い上がった。
「……どこかで聞いた話のようね……」
小さく呟くその声が、誰に向けたものか自分でもわからなかった。
その時だった。鏡の表面に波紋が走り、燭台の炎がかすかに揺れた。青白い光が鏡の中からにじみ出て、部屋の温度がひとつ下がる。夫人はゆっくりと振り返り、凍りついたように鏡を見つめた。
「……こんばんは、カトリーヌ夫人」
鏡の奥から甘い声が響いた。ノクスが現れたのだ。漆黒の髪が波打ち、艶やかな瞳が夫人を射抜く。唇に浮かぶ笑みは、絹で包んだ刃のように柔らかく冷たい。
カトリーヌ夫人の胸がひゅっと縮む。恐怖とも興奮ともつかぬ感情が足元から這い上がり、指先が微かに震えた。「あなた……あの噂の……?」
ノクスは笑った。
「ええ、あなたが心の奥で求めているもの、全部見えているわ。若さ、美しさ、そして誰にも支配されない力──どれも手に入らなかったでしょう?」
その囁きは絹のように柔らかく、それでいて耳の奥に甘い痛みを残した。
カトリーヌ夫人は鏡に近づきながら、胸の奥でざらりとした声が響くのを感じた。(アリエット……あの女が手にした若さ……まさか……これがその魔女……?)
「私は……もう、あの人のように騙されるつもりはないわ」
そう口にしても、声がわずかに揺れた。
ノクスは楽しげに目を細めた。
「騙す? いいえ、与えるの。あなたのような人にふさわしい、若さと力を。アリエットのように半日だけではなく、あなたにはもっと長く……永遠にだって可能よ」
鏡の奥でノクスの指先が踊ると、青白い光がふわりと広がり、夫人の頬を撫でた。指先に冷たい感触と同時に、胸の奥に甘い痺れが走る。
カトリーヌ夫人は息を呑み、唇を噛んだ。(いけない……でも……この渇き……)
「もし本当にそれが叶うのなら……」
その言葉が、まるで鍵穴を回す音のように静かに落ちる。
ノクスが微笑む。
「ええ、ただ鏡を覗いて、私の手を取ればいい。あなたは美しさと力を手にし、誰もあなたを老いさせない。すべての女たちが羨む存在になれるのよ」
声が甘く伸び、夫人の耳朶をくすぐる。夫人の視線が鏡の奥のノクスに吸い寄せられ、瞳に微かな光が宿る。
青白い光に包まれた寝室は、もう先ほどまでの豪奢な空間ではなかった。鏡が巨大な口のようにひらき、ノクスの瞳が夜の深みに輝き、カトリーヌ夫人の影が床に長く伸びる。
(これは……終わりなのか、始まりなのか……)
夫人の心の奥でささやきが交錯し、彼女の手が鏡に触れるかどうかのところで震えていた。
ノクスの笑みはさらに深くなる。
「さあ、決めて。あなたの未来を……今度はあなたが、選ぶ番よ」
その囁きは夜の底から吹く風のように、夫人の胸を冷たく撫でていった。
【おしまい】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
長くて暗くて灰まみれの物語(そして最後には鏡も粉々に)に最後まで付き合ってくださった皆さまには、頭が上がりません。
実はこの作品、作者的には「大長編・断罪ロマンス・史上最大の一発逆転」……になるはずが、結果は見事に爆死! PVの海でぷかぷか浮かぶどころか、藁の山に突っ込んで自滅するレベルの爆発っぷりでした(笑)。自分でも読み返して「どんだけ濃いんだ」と思わず突っ込みを入れたくらいです。
でもね、これこそが創作の醍醐味。トライ&エラーの連続で、灰になってもまた鏡の奥から這い出して、次の物語を書けばいい。今回の作品で「自分の未熟さ」「演出の詰めの甘さ」「ノクス的な誘惑に弱い構成力(笑)」を改めて痛感しました。
それでも、こうして最後まで読んでくださる方がいて、感想やブクマをくださる方がいて……この世界は、やっぱり書いていて楽しい。灰になったって、また立ち上がります。
というわけで、次回作ではもっと皆さんをゾクゾク&ドキドキさせる作品を書けるように頑張ります! 鏡の奥からまたお会いしましょう。
今後とも、よろしくお願いいたします!




