第三話『葛藤』
サロメとして立ち上がった私は、窓辺へ歩み寄り、外の光を浴びた。若さを取り戻した身体は軽やかで、風に髪が揺れるたびに胸が高鳴る。外へ出て、この変化をもっと確かめたい──そう思った瞬間、ふと冷たい不安が胸を締めつけた。
頭をよぎったのは家族と身近な者たちの存在。昨年、流行り病で父が他界し、今は兄のシャルルが当主となっている。私より五つ年上の彼は、何事にも厳しく真面目で、家の体裁を第一に考える人だ。母は私を産んだときに亡くなったと聞かされていたため、幼い頃から家の中は常に兄と父の存在が大きかった。その兄にもし、この姿を目撃されれば……想像するだけで背筋が凍る。
それに、長年仕えてくれている侍女のエリゼもいる。彼女の目は鋭く、誠実で、嘘を見抜く勘の良さを持っている。彼女に見られたなら、いくら言い訳を繕おうとも、真実を突き止められてしまうかもしれない。
恐ろしいのは──もしサロメとして行動している間に、誰かが自室を訪れたら、ということだった。鏡の奥で仮死のように眠る“アリエット”の身体を目撃されれば……その意味を知られれば……。考えるだけで、体の芯がぞっと冷えた。
外の世界へ踏み出したい気持ちは確かにある。けれど今は危険すぎる。
「……今日はやめておこう」
小さく呟き、私は窓から視線を外した。
だが心の奥底では、分かっていた。このままではいけないと。
サロメとしての自由を守るために、そしてアリエットとしての秘密を守るために──何かしらの策を講じねばならない。
サロメ、いや、アリエットである私は、己にそう言い聞かせながら拳を握りしめた。
その時は唐突に訪れた。頭の奥で、重く澄んだ鐘の音が鳴り響いた。ひとつ、またひとつ。身体の芯まで震わせるようなその響きは、誰の耳にも届かないはずなのに、私には確かに聞こえた。──契約の刻を告げる音だった。
鏡の面が淡く波打ち、黒い影がゆっくりと形を結ぶ。そこから現れたのは魔女ノクス。長い黒髪が水面のように揺らぎ、深い闇を思わせる瞳には、冷たい笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、早速──あなたのロマンスを話してちょうだい」
彼女の声は甘やかに響きながらも、底には鋭い刃を潜ませていた。
私は鏡台の前で両手を膝に置き、視線を落とした。喉が渇き、心臓が激しく打ち、息が思うように整わない。若返った身体の軽やかさとは裏腹に、心は不安と恐れで絡み合っていた。
「……行きたかったけれど、ずっとここにいたの」
声ににじむ弱さが、自分でも嫌になる。
ノクスの瞳が細まり、笑みが冷たく変わった。
「なぜ?」
その声音には苛立ちが混じり、鏡の奥で黒い影がざわめく。
「なぜ、まだ迷いがあるのかしら。わたしの魔力はあなたの自己満足を満たすための遊びではないのよ」
その言葉が、鋭い針のように胸に突き刺さる。私は慌てて顔を上げ、唇を震わせた。
「違うの……。迷っていたわけじゃない。ただ……外に出られなかったの」
「理由を言いなさい」
ノクスの声が一段低くなり、鏡の中からじっと見据える。その視線は氷のように冷たく、逃げ場を許さない。
私は拳を握りしめ、やっとの思いで言葉を絞り出した。
「……兄のシャルルや侍女のエリゼに、この姿を見られるのが怖かったの。もし“サロメ”として出歩いている間に、自室で眠っているアリエットを見られたら……全てが終わってしまう。そう思ったら、どうしても足が前に出なかった」
ノクスはしばし沈黙した。鏡面に浮かぶ彼女の影は揺らぎ、やがて細い笑みを浮かべた。
「なるほどね……人の目を恐れて恋を閉ざすのなら、若さを持つ意味も半減するわ」
その声は柔らかく響いた。けれど、その裏には確かに苛立ちと失望が滲んでいた。
「サロメ。契約を守りなさい。じゃなければ……あなたが閉じ込められるのは鏡の奥だけでは済まなくなる」
ぞっとするほど冷たい言葉が、花びらのように美しく散りながらも、呪いのように私の耳に焼きついた。
鐘の余韻がまだ胸の奥に残るなか、鏡の奥でノクスがゆるやかに微笑んだ。先ほどまでの苛立ちを引きずっているはずなのに、その声はやけに甘やかで、かえって不気味なほど落ち着いていた。
「……少し、言い過ぎたかしら」
唐突な言葉に、私は目を瞬いた。安堵のような感情が胸をかすめたが、同時に裏の意図を探ろうと心がざわめく。ノクスの笑みは、慈しみを装いながらも氷のような冷たさを秘めていた。
「警戒心が強いのは、悪いことじゃないわ」
彼女は指先で鏡の縁をなぞり、その動きに合わせて波紋が静かに広がった。
「リスクを冒しての恋愛ロマンスは、わたしの大好物。でも、不安に囚われていては甘美な物語を味わう余裕もなくなるでしょう?」
その声は耳元で囁かれているかのように近く、背筋がぞくりと震える。私は唇を噛み、ただ聞き入るしかなかった。
「だから、ひとつ策を授けてあげる」
ノクスが手を差し伸べると、鏡の奥から二つの物が姿を現した。ひとつは精緻な筆致で描かれたサロメの似顔絵。もうひとつは、深紅のドレスをまとったアンティークの人形だった。ガラスの瞳がわずかに光を反射し、まるで生きているようにこちらを見返してくる。
「これは、あなたの秘密を守る道具よ」
ノクスの声音は柔らかいが、その奥に何か邪悪な愉悦が潜んでいた。
「侍女にはこう告げなさい──私は同性に目覚めたと。だから、この若い娘サロメが屋敷にいても不思議ではない、と。身の回りのことや部屋の掃除も、今後はサロメに任せると伝えればいい」
私は息を詰めた。そんな荒唐無稽な口実が通用するのか。だがノクスは構わず言葉を続けた。
「それから、この人形は特別よ」
ノクスが人形の頭を軽く撫でると、どこからか小さな機械仕掛けの音がした。
「ドアがノックされた時に、この人形はアリエットの声を発するわ。『今は忙しい』──『秘め事をしている喘ぐ声を発するわ』──さらにはベッドがきしむ音まで再現してくれる」
頬に熱が走る。羞恥と恐怖が入り混じり、喉が乾いた。
「その声と音を侍女が耳にしたら、どう思うかしら。きっと兄のシャルルに報告するでしょう。その時は頬を赤らめなさい」
ノクスの瞳が愉快そうに細められる。
「そうすれば、サロメの存在は“痛い者を見る視線”で済むようになる。誰も深入りしてはこなくなるわ」
「……そんな……」
私は思わず声を漏らした。羞恥に耐えながら秘密を守るしかないのか。恐怖と反発が胸をかき乱す。だがノクスの囁きは耳から離れず、逃げ場を与えない。
「さあ、サロメ。選びなさい。羞恥を恐れて秘密を失うか。それとも誇りを捨てて恋を守るか」
花びらのように舞い散る声が、甘やかで残酷な鎖となり、私の心を締めつけていった。
翌日の昼下がり。屋敷の廊下はひんやりと静まり返り、私の部屋だけが妙に張りつめた空気を孕んでいた。机の上にはノクスから渡されたサロメの似顔絵と、深紅のドレスをまとったアンティーク人形。ガラスの瞳がこちらを見返し、秘密を背負う覚悟を迫ってくる。
エリゼを呼び入れる前に、私は深く息を吸った。緊張で胸が痛む。だが、ここで一歩を踏み出さなければならない。
「エリゼ……少し、話があるの」
そう切り出すと、彼女は静かに扉を開け、恭しく一礼して部屋へ入ってきた。
私は机の上の似顔絵をそっと手に取り、彼女の前に差し出した。そこには、若き娘サロメの姿が精緻に描かれている。
「この人……わたしは、彼女に心を奪われてしまったの」
声は震えたが、必死に笑みを保った。
エリゼの瞳がわずかに揺れた。だが、すぐに真面目な表情を取り戻し、静かに頷いた。
「……お嬢様のお心のままに」
私は続ける。
「だから、これからこの娘──サロメが屋敷にいても、詮索はしないでほしいの。身の回りのことも、今後は彼女に任せるつもりよ」
言葉を吐き出すたびに羞恥で頬が熱を帯びる。エリゼは一瞬だけ驚いたように目を瞬いたが、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
私は胸を撫で下ろした。だが心臓はまだ落ち着かず、次の策を試す時が迫っているのを感じていた。
そのとき──コン、コン、と控えめなノックが響いた。
背筋が跳ねる。胸が高鳴り、呼吸が浅くなる。
すると机の上のアンティーク人形が、ひとりでに目を光らせた。カチリと小さな仕掛けが作動し、次の瞬間──
『……今は忙しいの』
確かにアリエットの声が部屋の中から返った。続けて、微かにベッドのきしむ音まで響いた。
頬に熱が上る。恥ずかしさと恐怖で耳まで赤くなった。だがエリゼは沈黙したまま、扉の向こうで息を潜めているようだった。
「……承知いたしました」
やや硬い声でそれだけを残し、足音が廊下を遠ざかっていった。
胸の奥で鼓動が跳ねる。震える手で人形を抱きしめ、鏡に目をやる。そこには、愉快そうに微笑むノクスの姿が揺れていた。
「ほらね、簡単でしょう?」
甘やかな声が響き渡る。
「もう彼女は疑わないわ。むしろ、あなたが秘め事に溺れていると思い込むでしょう。侍女の口から兄シャルルに伝わるのも時間の問題。その時は、ただ頬を赤らめておきなさい」
私は唇を噛み、視線を逸らした。羞恥で顔が火照って仕方がなかったが、それでも策は確かに機能していた。だが同時に、自分が後戻りできない道を歩み始めたのだと痛感し、心の奥に冷たい影が広がっていくのを感じていた。