第二十九話『処刑前夜──最後の散歩と誓いのキス』
朝の光が、石造りの幽閉部屋の小さな窓から細く差し込み、鉄格子の影が床に長く伸びていた。湿った石の匂いが鼻腔に絡み、微かな冷気が首筋を撫でる。私はその光を見つめながら、ただ両手を膝に置いて息を潜めていた。
扉が軋み、衛兵が一瞬だけ敬礼して退くと、その隙間から赤いマントの王子──レオンが姿を現した。彼の顔には夜を越えた疲労の影が薄く滲み、けれど瞳だけは鋭く光っていた。
「……処刑の日が決まった」
その声は低く、そしてひどく静かだった。石壁に反響しながら、私の胸の奥に冷たい杭を打ち込む。心臓がひゅうっと縮み、口の中が乾く。私は目を伏せ、かすかに唇が震えた。
「……そう……ですか……」
声がかすれ、自分のものではないように聞こえる。彼の青い瞳が私を射抜き、その光が胸の奥で火花を散らすようだった。彼の足取りはゆっくりで、やがて私の前に立ち止まる。
「最後だから……城の庭を散歩しよう」
その一言に、胸の奥がひりついた。哀しみと優しさが同時に絡みつき、心臓の奥をそっと撫でるようだった。私は顔を上げ、その瞳を見つめ返した。レオンの青い瞳には揺れる光と、深い痛みが宿っている。
「……殿下……」
名前を呼ぶ声が、胸の奥で小さな波紋を作る。罪悪感がすべてを覆っているはずなのに、その瞳を見ているとほんのひととき、鉄格子が消えたような錯覚に襲われる。
(最後の時間……せめて……この人と……)
胸の奥で震えながらも、私は小さく頷いた。指先が膝の上で震え、唇がほのかに熱を帯びる。石壁に反射する光が淡く揺れ、ふたりの輪郭を柔らかく包んだ。レオンの唇が微かに動き、私にだけ届く声で囁く。
「もう一度……君と歩きたい」
その瞬間、胸の奥にわずかな温もりが芽生え、私は自分でも気づかぬうちに小さく微笑んでいた。
長い回廊を抜けると、外の空気が頬にやわらかく触れた。鉄格子越しではない風の匂い、春の光、遠くから聞こえる小鳥の声。私は思わず目を細め、深く息を吸い込んだ。湿った石の匂いのない空気が肺に流れ込み、それだけで胸が震える。
庭園へ続く白い石畳が朝の光を反射し、噴水の水が小さくきらめいている。彫像の間をすり抜ける風が花の香りを運び、髪をふわりと揺らした。その瞬間、胸の奥に閉じ込めていたものがひとつひとつ解けていくような錯覚に襲われた。
「……覚えているか」 横に並んだレオン王子の声が、春風に溶けて耳に届く。「舞踏会で初めて君を見た時のことを」
私は息をのんだ。あの夜、揺れるシャンデリア、楽団の音色、宝石のようなドレスの光……そして、青い瞳と視線が交錯した瞬間が胸の奥に鮮やかに蘇る。罪悪感と幸福感が同時に押し寄せ、心臓がゆっくりとひりつくように脈打つ。
「あなたのドレスが……光を纏った女神のようで……」 レオンの声が少し震え、微笑がその横顔に浮かんだ。「あの時の衝撃を、私は今も忘れられない」
私は唇を噛み、しかしその視線に頬がわずかに熱を帯びた。春風が髪を揺らし、花の香りが胸の奥に染み込む。鉄格子に閉ざされない空の色が、鮮やかなブルーに広がって胸を震わせる。(最後の時間なのに……どうしてこんなにも……)
レオンの手がそっと私の手に触れそうに伸びてきた。私は一瞬ためらい、心臓が小さく跳ねた。けれど、その指先にふっと微笑みを返してしまう。時間がゆっくりと流れ、噴水の水音が二人を包み込む。空気がやわらかく揺れ、私たちの距離がほんの少し近づいた気がした。
庭園の奥、噴水の水音がやわらかく響き、彫像の陰に春の光がまだら模様を落としている。木々のざわめきと、風に運ばれる花の香りが混じり合い、世界全体が淡い夢の中にあるようだった。私はレオン王子の横顔を盗み見ながら、胸の奥に波立つものを抑え込もうとする。
「市場で君と歩いたときのこと……覚えているか?」
レオンの声が、水音に溶けながら耳に届く。私は頷くこともできず、ただ瞳を閉じた。あの日の記憶が鮮やかに蘇る──雑踏のざわめき、果物の甘い匂い、露店の布地を風が揺らす音。彼の指先がそっと私の手を取った時の温もりまでが、今この場に再現されたようだった。
「別荘で過ごしたあの夜のことも……」
その一言で胸の奥がきゅっと締めつけられる。夜明け前の淡い光、暖炉の火がつくる陰影、ワインの香り、肌をかすめた春先の冷たい空気──あの一晩に漂っていたすべてが、今また五感に満ちて押し寄せてくる。罪悪感と幸福の余韻が、波のように胸を打つ。
(もうすぐ終わるのに……どうしてこんなにも……)
心の奥で呟いた瞬間、足取りが自然とゆるんだ。噴水のそばに辿り着くと、レオンが立ち止まり、じっと私を見つめた。水面に二人の姿が揺らめき、朝の光がその輪郭を金色に縁取る。私はその視線を受け止め、胸の奥で時間が一瞬止まったように感じた。石と水の匂い、王子の体温、そして私の罪と願い──すべてがひとつに溶けていく感覚があった。
噴水の飛沫が小さく頬にかかり、私はほんの僅かに微笑んだ。レオンの青い瞳に映る自分の姿が、今だけは罪ではなく、ひとりの女としてそこにいるような気がした。
噴水の飛沫が小さな虹を作るなか、レオン王子が静かに懐から革の袋を取り出した。陽光を受けてその口から金貨がちらりと光をこぼし、鈍い輝きが私の胸を刺す。庭園の奥には風がそよぎ、木々がざわめいているのに、ここだけが静まり返っているようだった。
「……ミラのことは残念だった」 レオンの声が低く、噴水の水音に紛れて耳に届く。「だが、これで逃げて自由になってくれ」
差し出された袋から立ちのぼる革の匂いと金属の重み。その一瞬に胸の奥が締めつけられ、喉がひりつく。私は思わず視線を逸らした。指先に涙が滲み、心臓が小さく悲鳴をあげる。(逃げて……自由に……)
私はゆっくりと首を振った。髪が風に揺れ、頬にかかる。「お気持ちは……嬉しいです。でも……自分は罪を犯しました。魔女にそそのかされたと言え……罪は罰を受けないとだめです」
その言葉が噴水の水音に沈み、金貨の輝きが揺らぐ。レオンの青い瞳がわずかに揺れ、彼の手が震えたのがわかった。袋の中の金貨が小さく触れ合い、乾いた音を立てる。二人の間に決定的な溝が横たわっているのを、空気そのものが教えてくる。
私は胸の奥に小さな痛みと、しかしそれ以上の決意を抱きながら、静かに息を吐いた。レオンの指先が袋を握る力を緩め、彼の瞳に複雑な光が宿る──哀しみ、諦め、そしてそれでも消えない愛の名残り。噴水の飛沫が二人の間に光の幕を作り、私たちを別々の世界に閉じ込めていくように感じた。
幽閉の部屋に戻る直前、石造りの廊下に午前中の光が差し込んでいた。鉄格子を透かして届くその光は淡く、ふたりの輪郭を琥珀色に染める。私は胸の奥に広がる罪悪感を押し殺しながら、足を止めた。レオン王子の足音も同じ場所で止まり、背中に静かな熱を感じる。
「……最後に……」 その声はかすかに震えていた。私は振り返る。青い瞳の奥に潜む哀しみと決意、それでも消えない愛の光。彼がそっと手を伸ばし、私の頬に触れようとする。その指先に胸の奥がきゅっと締めつけられ、喉がひりついた。
(罪なのに……なのに、こんなにも……)
胸の奥に罪悪感と幸福が同時に湧き上がり、世界が一瞬にして静止する。鉄格子越しの淡い光、石の冷たさ、王子の体温。ふたりだけの世界がそこにあった。
「……殿下……」 唇がわずかに震えた。彼の顔が近づく。まつ毛の影が頬に落ち、青い瞳が私の瞳をまっすぐに射抜く。時間が止まるような感覚のなか、私の心臓だけが高鳴っていた。
そして、王子の唇がそっと私の唇に触れた。軽く、けれど確かな重みを持つキス。頬に触れた指先の温かさが、鉄格子の冷たさと対照的に心を溶かす。私は目を閉じ、ほんのわずかに身を委ねた。胸の奥で何かが崩れ、同時に救われるような錯覚に襲われる。
瞼の裏に光が滲み、私の目に涙が浮かぶ。ひとすじの涙が頬を伝い、唇の端にまで流れ落ちた。その瞬間、石壁の外から処刑の日を告げる鐘の音が遠く響き、ゆっくりと時間が再び動き始める。鐘の音が心臓の鼓動と重なり、冷たい空気の中で未来のカウントダウンが始まったことを告げていた。




