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第二十八話『審問室の囁き──迫る死と秘密』

 重い扉が閉まる音が、石造りの審問室に深いこだまを残した。冷たい壁には鉄の燭台が並び、そこから漏れる淡い光が床に波紋のような影を落とす。書記官が羽ペンを走らせる音だけが、静寂の中で鋭く響いていた。私の背中に貼りつく椅子の木目は冷たく硬く、腰の奥までしびれるような感覚を残す。


「……サロメ、もう一度聞く。ミラ嬢があのような姿になった経緯を話せ」  審問官の声が低く、石の壁に反射して重くのしかかる。「そして消えたアリエット嬢はどこにいる? 答えなさい」


 私は唇をかすかに開いたが、声が出なかった。喉の奥がひりつき、胸の奥では焦りと恐怖がせめぎ合い、指先が膝の上で白くなるほど握りしめているのが自分でもわかる。羽ペンの先が紙の上をかすめる音が、針で突かれるように耳に刺さる。


(だめ……言えない……言ったら全部が終わる……)


 審問官の視線がさらに鋭くなり、机の向こうから突き刺さってくる。私は目を伏せ、石床に散る光の破片だけを見つめた。耳の奥で血の音が鳴り、世界が遠くなる。


 ──その時だった。耳の奥に、絹のように甘く、しかし刃物のように鋭い声が忍び込んできた。


『早くこの局面を乗り越えないとアリエットが老いから死んでしまうわよ』


 ノクスの声だ。その囁きは毒のようにゆっくりと私の心臓に染み込み、胸を冷たく締めつける。石の部屋の中にいるはずなのに、背骨を氷の指でなぞられるような感覚が走った。


(やめて……やめて……どうしたらいいの……)


 唇が微かに震え、視界の端で審問官の姿が揺れる。胸の奥がぎゅうっと縮み、喉の奥で名前のない声が押し殺される。書記官の羽ペンの音が、やけに大きく聞こえて世界が歪んでいく。


 私は息を止め、机の縁をそっと指でなぞった。その感触だけが現実に繋ぎ止めてくれる唯一のもののようで、ひやりとした冷たさが指先から腕に上っていった。ノクスの囁きはまだ続き、耳の奥でかすかに笑っている。


 審問官の視線が机越しに突き刺さり、書記官の羽ペンが紙の上を走る音だけが石造りの部屋に響いている。私は椅子に座ったまま、両手を膝に置き、震えを必死に抑えていた。喉の奥がひりつき、口を開こうとしても声が出ない。空気が重く、指先にまで冷たさが染みていく。


(どうしたらいいの……このままじゃ……アリエットが……)


 心の奥で必死に叫ぶと、耳の奥に甘くも鋭い囁きが忍び込んできた。


『全て公の場に話すしかないわね』


 ノクスの声が、氷のように冷たく、それでいて絹のように滑らかに絡みつく。


『言えばあなたは間違いなく魔女裁判にかけられる。でもアリエットが死ぬよりはましじゃない?』


 その声は微笑むように、私の胸の奥を撫で、同時に爪でひっかく。胸の奥がぎゅっと縮み、喉の奥がさらにひりつく。視界の端で審問官の唇が動くのが見えるが、音が届かない。羽ペンの音だけがやけに鮮明に響く。


(私が……話せば……全てが……終わる……でも……アリエットが死ぬよりは……)


 迷いと震えが全身を支配する。膝の上で手が白くなるほど握りしめられ、肩がかすかに震えているのがわかる。冷たい汗が背中を伝い、衣服の内側にしみこんでいく感覚がひやりとした現実を刻む。


『さぁ、選びなさいサロメ。逃げられないわよ。鏡はすべてを見ている──』


 ノクスの声が絹糸のように胸に絡みつき、私の心臓を縛っていく。石の壁が遠く霞み、世界の中心がノクスの囁きと自分の鼓動だけになっていく。


(……もう……決めなきゃ……)


 胸の奥に、冷たい決意のかけらが芽生えた。その感覚が針のように鋭く、同時に底なし沼のように重い。私は息を詰め、視線を机の木目に落とした。書記官の羽ペンがその瞬間、ぴたりと止まり、部屋の空気が微かに震えた。


 審問室は、私の鼓動に合わせて微かに揺れているように見えた。書記官の羽ペンの音が、今までより遅く、鋭く、深く耳に刺さってくる。私は膝の上に重ねた手を強く握りしめ、ついに唇を開いた。


「……私こそが……」


 声がかすれ、喉の奥で小さな火花が散る。審問官の目が細まり、書記官が羽ペンを止める。「……アリエット……そして私……鏡の中で……」断片的な言葉が唇から零れ落ち、石の壁に反射して跳ね返る。私の胸の奥に長く閉じ込めてきた秘密が、今まさに空気の中に吐き出されていく感覚があった。


「まさか……そんな……」

 審問官がかすかに息を呑み、書記官の手が宙で止まったまま動かない。


(もう……言ってしまった……)


 そのとき、扉が軋み、カトリーヌ夫人が入ってきた。絹の裾を引きずり、顔には緊張と好奇の混じった笑み。彼女の視線が私に突き刺さる。

「アリエットの事を教えなさい」

 その声は甘い毒のように、部屋の冷たい空気に広がった。


 私はゆっくりと顔を上げ、冷たい視線を彼女に返した。

「あなたには何も話すことはありません」

 審問官に全てを打ち明けたから供述はいずれ世に知れるだろう。

 だが、私はカトリーヌ夫人にだけは自分の口から全てを話すことは拒んだ。

 それは、心の中にわずかに残っているアリエットの抵抗なのかも知れないと思った。かつての社交界でのライバルのカトリーヌ夫人にだけは若さを求めた愚かな自分を晒したくなかったから。


 その一言で、部屋の空気がぴんと張り詰める。カトリーヌ夫人が一歩踏み出しかけ、しかしその言葉に押し戻されるように立ち止まった。書記官の羽ペンが微かに震え、審問官が息を飲んだ。


(全部……話した……でもこれから……どうなる……)


 胸の奥に、安堵と恐怖が同居する奇妙な重みが沈んでいく。まるで冷たい水に浮かぶ熱い石のように、二つの感情が同時に存在し、体の奥でぶつかり合っていた。視界の端でカトリーヌ夫人の瞳が小さく揺れ、審問室の光がわずかに色を失ったように見えた。


 夕刻の光が石造りの幽閉部屋の小さな窓から斜めに差し込み、床に長い影を作っていた。羽ペンの音が途絶え、衛兵が重い扉を開けると、香のかすかな匂いとともにオーギュスト王が姿を現した。重厚なマントの裾が石床を擦り、鎧をつけた近衛が静かに控える。私は小さな椅子の上で背筋を正し、胸の奥で波打つ鼓動を抑え込んだ。


「……このままではお前は魔女として断罪される」


 オーギュスト王の声は低く、石壁に反響して部屋の空気を冷たく震わせた。ゆっくりと近づくその足音が、私の心臓の鼓動と重なっていく。「だが、私の側室になるなら助けてやってもいい」


 その言葉が部屋の空気を一変させる。胸が冷たくなり、喉がひりついた。王の視線が私を値踏みするように上下し、静かな熱がその奥に潜んでいるのがわかる。私の背筋をひやりとしたものが走り、指先が微かに震えた。


(王の愛人になるくらいなら……魔女として断罪される方がまだ良い……)


 胸の奥でその言葉がひっそりと形を取り、心臓の奥をひりつかせる。私は目を伏せ、ゆっくりと首を振った。金属の首輪が小さく鳴り、拒絶の合図となって部屋の空気を震わせた。


 オーギュスト王の瞳に一瞬だけ閃く怒りと興味。その光が鋭い刃となって私を貫くが、同時にどこか愉しげな笑みの片鱗も浮かぶ。近衛たちの鎧のきしむ音が、部屋の緊張をさらに引き締める。


 私は唇を噛み、ただ黙ってその視線を受け止めた。石壁がかすかに軋み、夕刻の光が揺らぎ、世界が次の瞬間に進もうとしている──不穏な予感だけが、胸の奥に濃く沈んでいった。



 私は石造りの狭い部屋の中で、うつむいたまま息を潜めていた。審問官にノクスのことも含めて全てを話してしまったことが、胸の奥で鉛のように重く沈んでいる。指先が膝の上でこわばり、冷たい汗が背中を伝った。


「……ごめんなさい、ノクス……あなたのことまで……全部、話してしまった……」


 その言葉を口にした瞬間、部屋の空気がひやりと変わった。耳の奥に、あの甘くも鋭い囁きが忍び込んでくる。


『謝る事などないわ。こちらがお礼を言いたいぐらいよ』


 その声に思わず顔を上げる。誰もいないはずの部屋、鉄格子の向こうにぼんやりと浮かぶノクスの影。


「……御礼って? 何を……」


 震える声で問いかけると、ノクスは唇を吊り上げ、愉しげに笑った。


『だってまんまと私の策にアリエットが乗ってくれて、思惑通りに事が運んだから。所詮、アリエットや他の貴族たちも含めて最初から契約なんて守れない。人間って愚かな生き物。かつての私がそうだったように』


 その言葉が針のように胸に突き刺さる。「……あなたは一体何者なの……?」と私は絞り出すように呟いた。


 ノクスの影がわずかに揺らぎ、その瞳の奥に暗い湖のような深淵が見えた。


『私はね、今から百年前に貴族たちに弄ばれた農民の娘だったのよ。弄ばれ、飽きられ、最後には殺されて森に埋められた……。その怨念が魔女としての存在を形づくり、貴族に復讐するために機会を伺っていた──』


 ノクスの笑い声が低く、やがて高くなる。部屋の空気がひび割れたガラスのように震え、私の胸が凍りつく。


『ざまぁみろ……これからの断罪が楽しみね。つぎの目的も決まったから、あなたたちに要はないわ』


 その声が最後の一言を告げた瞬間、影が音もなく霧散し、部屋の空気だけが重く残された。私は膝の上で握りしめた手の震えを止められず、ただその消えた空間を見つめていた。胸の奥に小さな火傷のような痛みが残り、世界が急に静まり返る。

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