第二十七話『幽閉されたサロメ──鏡の罪と王子の問い』
後になってすべてが分かった。あの夜、ミラは「誰にも言わずに屋敷に来る」という約束を本当は守っていなかったのだ。彼女は婚約破棄のことを王子にだけは告げ、どうしても直接伝えたいと願って、王子に同行を求めていた。私はそれを知らず、鏡の奥からすべてを操っているつもりでいたのに、すでに王子は近くにいた──その事実が、後から私の胸に重くのしかかってきた。
(私の知らないところで……もうすでに……)
薄暗い廊下、馬車の中でひそやかに話していた二人の影が、記憶の断片として私の頭に浮かぶ。ミラが白い手袋の指先でハンカチを握りしめ、震える声で「一緒に来てください」と王子に告げる姿。レオン王子の青い瞳が一瞬だけ揺らぎ、黙ってうなずく仕草。──その場面が後に、まるで夢のように私の脳裏に蘇った。
(だから……彼はあの時……部屋の外に……)
私の胸の奥に罪悪感と恐怖が同時に押し寄せた。あの瞬間、私は自分だけが計画のすべてを握っていると思っていた。だが本当は、王子はすぐ隣の世界に立っていた。私の目の届かないところで、彼がミラの後ろを守っていたのだ。
ノクスの声が耳の奥でくぐもって笑う。「そう、全部あなたの思い通りじゃないのよ」──そんな嘲笑が聞こえた気がして、指先がひやりと冷たくなる。私は鏡の前に立ったまま、あの夜の断片を必死に繋ぎ合わせ、今さらのように真実を知る。
(知らなかった……私は……すでに王子を巻き込んでいた……)
胸の奥で自責の声が響き、呼吸が浅くなった。私の知らない二重の約束が、後にどれだけの混乱を引き起こすか、その時の私はまだ知る由もなかった。
やがて夜が明け、青白い朝の光が廊下に差し込むころ、レオン王子は疲労の色を顔に浮かべながら私の部屋の前に立っていた。「……一度、城に戻る。必ず真相を解き明かす」その声は低く、決意だけが鋭かった。私は何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。彼の背中が朝の光の中に消えていき、屋敷にはまだ昨夜の恐怖の残滓が漂っていた。
──あの夜のことを思い返す。レオン王子がアリエットの自室に踏み込んだ瞬間、侯爵家全体がざわめきに包まれた。廊下にいた侍女たちが顔を見合わせ、家臣たちが走り回り、遠くで鐘のような音が聞こえる。まるで見えない嵐が屋敷に押し寄せたかのように、空気が緊張で軋んでいた。
王子が一旦帰城してから、近衛を沢山引き連れて陣頭指揮に当たった。
「徹底的に探すんだ!」王子の鋭い命令が響く。
「ミラ嬢を探せ、屋敷内をくまなく調べるのだ」
近衛たちが一斉に散っていく足音が床を揺らし、庭園、廊下、倉庫、隠し部屋──ありとあらゆる場所が捜索されていく。私はその光景を鏡のそばで見守りながら、胸の奥で冷たいものがせり上がるのを感じていた。
(だめ……だれも……見つけないで……)
願いとは裏腹に、近衛の一人が私の部屋に飛び込んできた瞬間、彼の視線が鏡に釘づけになった。「な、なんだ……これは……!」
鏡の中では、老婆となり動けなくなったミラ嬢がうずくまり、その横に若さを取り戻したアリエット、そして背後にはノクスの影が揺らめいていた。鏡の表面が波打ち、淡い光が部屋の天井を照らし、空気を震わせる。
「人……なのか……影……なのか……」近衛の一人が後ずさり、剣を抜く手が震えている。侍女たちが口を覆い、泣き出しそうな声で祈りの言葉をつぶやいた。家臣たちが交錯し、恐怖のさざ波が屋敷中に広がっていく。
(もう……表沙汰になってしまう……)
私は鏡の前に立ち、視線をそらせないまま胸の奥を押さえた。自分が原因であることを必死に隠しながら、事態が崩れていくのをただ見つめるしかなかった。ノクスの声が耳の奥でくすりと笑い、私の心臓を爪先で転がすような感触を残して消えた。
■
石造りの小部屋に、冷たい空気がまとわりついていた。窓は高い位置にひとつだけ、そこから差し込む朝の光が埃を浮かび上がらせ、重い空気の中に白い筋を描いている。私は木の椅子に座らされ、両手を膝に重ねたまま、冷えた指先を感じていた。
机の向こうには書記官がいて、羽ペンの先をかすかに揺らしながら、書き取りの準備をしている。その隣に立つ衛兵の鎧が、光を受けて鈍く反射していた。目の前の机の木目が波紋のように見え、視界がゆらぐ。
(ここが……私の終わり……? 何も……話せない……)
扉が開き、エリゼが入ってきた。彼女の顔は青ざめ、目だけが強い光を帯びている。彼女もまた呼ばれて、供述を求められるのだろう。エリゼは深呼吸してから私を一瞥し、机の向こうの役人に向かって静かに話し始めた。
「……ある日突然、サロメが現れました。アリエット様とは……禁断の関係にあったと、私たちは皆そう思っていました。二人が一緒にいるところを目撃したことはありませんが……」
彼女の声は硬く、抑えてはいるが震えているのがわかった。役人が頷き、羽ペンが走る音が石の壁に反響して耳に刺さる。私の胸の奥がひりひりと痛み、冷たい汗が背中を伝った。
(やめて……エリゼ……そんなふうに……でも、彼女は何も知らない……全部は私が……)
私は目を伏せたまま、唇をかすかに動かしたが、声は出なかった。自分の正体や鏡の秘密を守るため、ただ口をつぐむしかない。しかし、エリゼの言葉の一つ一つが鋭い針のように私の皮膚を貫いていく。
役人が私に視線を向ける。「サロメ、あなたは何者だ? なぜ侯爵家に現れた?」その問いかけが部屋の空気をさらに冷たくした。羽ペンが再び走る音、鎧のきしむ音、エリゼの息づかい……すべてが私の胸を圧迫する。
(答えられない……言えば……鏡のことが……ノクスが……)
唇をかみしめ、視線を落とした。石造りの床の冷たさが足首から這い上がり、背骨に到達する。その感覚が現実への最後のつながりのようで、私はそれにすがるしかなかった。
石造りの幽閉部屋には、いつも同じ匂いがした。湿った石のにおい、冷たい鉄格子、そして朝の光が届かない空気。息を吸うたびに喉の奥がざらつき、肺の奥に重い鉛を落としたような感覚だけが残る。ここに来て二日ほどにして、もう日数を数えることもやめていた。
その扉がまた軋んだ。衛兵が一瞬だけ敬礼し、青いマントの男を通す。レオン王子だ。彼はいつものように迷いなく部屋に入ってきて、私の前に立つ。長い夜を越えたその顔には疲労の影が浮かんでいるのに、瞳だけは強く光っていた。
「……また来てしまった」
その声はかすかに低く、しかし確かな熱を含んでいた。鉄格子越しに私を見つめるその視線が、胸の奥に突き刺さる。青い瞳に宿る焦燥と疑念、そして微かな優しさ──それらが複雑に交錯しているのがはっきりわかった。
「君は……いったい何者なんだ? アリエットと君はどういう関係だ?」
その声は責め立てるようでいて、どこか切実な響きを帯びていた。胸がきゅっと締めつけられ、喉の奥がひりつく。私は目を伏せ、指先がかすかに震えるのを感じた。彼の声が近く、熱を持って私の肌に触れるようだった。
「……ミラ嬢に何があったのか……」
問いが繰り返されるたびに、罪悪感と恐怖、そしてほんのわずかな救いの感情が胸の奥で絡み合っていく。彼の瞳が細まり、私の奥底を覗こうとするその視線に、私は言葉を飲み込んだ。自分の中で渦巻く思いを押し殺し、ただその瞳に耐えるしかなかった。
「レオン殿下……私は……」
声がかすれ、そこで途切れる。彼の目がさらに鋭くなるのを感じた。私を責めるのではなく、求めるような光がそこに宿っているのがわかった。心臓が胸の奥で小さく悲鳴をあげる。
(この人は……もうミラではなく……私を見ている……)
王子の指先が鉄格子に触れ、その金属音が小さく響いた。青い瞳と私の瞳が交錯し、時間が一瞬だけ止まる。鉄格子の冷たさと、彼の目の熱のコントラストが胸の奥を焼き、私の呼吸を奪っていった。
王子の青い瞳が私の奥底を覗くように細まり、その視線に心臓が小さく悲鳴をあげていた。指先の震えを必死で押し隠しながら、私はその目から目を逸らせずにいた。鉄格子の冷たさと、彼の視線の熱が胸の奥でせめぎ合い、世界が音を失ったように感じる。
──その時だった。耳の奥に、絹のように甘く、しかし刃物のように鋭い声が忍び込んできた。
『アリエットがまもなく老化から死ぬ。死ねばお前にも罰が下る』
その囁きは、ゆっくりと私の脳裏に染み込む毒のようだった。胸が冷たくなり、心臓を爪で掴まれるような感覚が走る。息を呑み、喉の奥がひりつき、目の前の景色がかすかに滲んだ。
『逃げられないわよ、サロメ。鏡はすべてを見ている──』
ノクスの声がさらに甘く絡みつく。まるで私の罪悪感を弄ぶように、その声は耳の奥で渦を巻き、脊髄の奥まで震えを送り込んでくる。
(やめて……やめて……)
その瞬間、私ははっきりと悟ってしまった。こんな状況になっても契約はまだ生きている──ノクスの支配の糸は私の中で脈打ち続け、逃れることはできない。胸の奥でひゅうひゅうと冷たい風が吹き抜け、絶望という言葉がゆっくりと形を取って私を締めつけた。
(まだ……終わっていない……この地獄は……)
王子の視線とノクスの声、その二つが同時に私を挟み込み、胸の奥で激しくぶつかり合う。王子への想いとノクスへの恐怖が板挟みになり、指先が白くなるほど膝を握りしめた。
(言えない……でもこの目を裏切ることもできない……)
その独白が胸の奥で小さく反響する。王子の瞳の奥に痛みと愛情が入り混じっているのがわかり、その視線が私を縫い止める。私の呼吸が止まり、世界が一瞬だけ揺らいだ。
石の壁がかすかに震え、ランプの火がほんの少しだけしぼんだ。時間が次の瞬間に進もうとしている──その刹那の感覚だけが、私を現実につなぎとめていた。




