第二十五話『ささやかれた秘密、閉じられた扉』
ミラは椅子から静かに立ち上がり、ドレスの裾を整えながら深く頭を下げた。薄いランプの光が彼女の髪に反射し、細い影を床に伸ばしている。「私の気持ちが言えてよかったです」その声は小さいのに、不思議なほどはっきりと私の胸に届いた。
扉の方へ向かう彼女の背中を、私は息を止めて見つめていた。白い手袋の手がドアノブに伸びる瞬間、胸の奥がきゅっと軋んだ。(……帰すべきか、それとも──)
そのとき、鏡の奥から甘い囁きが滑り出してきた。まるで絹糸を這わせるような声、それでいて爪の先で心臓を撫でるような鋭さがある。
『このまま帰すと、アリエットはどう思うかしら?こんなチャンス、もうないわよ。返したらもう二度とアリエットはあなたに入れ替わらない。あなたと私は永遠に鏡の中の住人……それも悪くないわね』
ノクスの声だ。私は肩を強張らせ、背筋に冷たい感触が走った。心臓の奥で何かがひゅうっと吸い込まれていくように、胸の奥が凍りつく。
(永遠に……鏡の中……)
頭の奥でノクスの囁きが反響する。言葉は甘いのに、そこに潜む毒が私の血管をゆっくり満たしていくようだった。息が浅くなり、指先が冷たく震える。
『決断しなさい……』
その言葉が重く胸に落ちるたび、部屋の空気が一段冷える気がした。暖炉の火が青くかすかに揺らぎ、ランプの光が私の影を長く引き伸ばす。
(帰せば……私は……もう二度と……)
ミラの背中がゆっくりと扉の向こうへ消えようとする。時間がゆっくりと引き延ばされ、私の心臓の音だけが部屋に響いている。私の唇がかすかに動き、声にならない声を吐いた。
「……ミラ……待って……」
囁くように出たその声は、私自身のものというよりも、胸の奥から引きずり出された別の声のようだった。ノクスの囁きと自分の息が混じり合い、決断を迫る冷たい圧力が、私の背骨を一本一本締めつけていた。
ミラがドアノブに手をかけた瞬間、私は咄嗟に声を発していた。「ねぇ、ミラ。私とアリエットの関係、知りたくない?」
彼女の肩がぴくりと揺れ、ゆっくりと振り返る。ランプの光が彼女の頬に金色の縁を描き、瞳の奥に小さな火花のような驚きが宿っている。白い手袋をした指先がドアノブの上で固まり、息を呑む音が微かに聞こえた。
私は微笑を浮かべ、ゆっくり歩み寄る。自分の心臓の音が胸の奥で大きく鳴り、耳の奥でノクスの囁きがまだうっすらと残響していた。
「あなたも思っていたはずよ。突如社交界に現れた私のこと……誰も知らない秘密。教えてあげる」
その声を出すたびに、自分が甘い罠の糸を編んでいるのがわかる。ミラの瞳がわずかに揺れ、好奇心と警戒心が同時に浮かんでいるのが読み取れた。
「さぁ、アリエットの自室へ行って話しましょう。全部、私たちのことを教えてあげる」
囁くように言いながら、私は自分の声がまるで別の女のもののように響いているのを感じた。言葉が甘く長く尾を引き、ミラの心にゆっくりと絡みついていく感覚がある。胸の奥で小さな罪悪感が疼き、指先がほんの一瞬だけ冷たくなった。
ミラはドアから手を離し、困惑した顔で私を見つめる。その頬の赤みがランプの光に溶け、私の胸の奥に静かに沈んでいった。
私はミラを先導して、薄暗い廊下をゆっくりと進んだ。ランプの光が二人の影を長く引き伸ばし、石造りの壁に揺れる模様を描く。ノクスの囁きが耳の奥でくぐもり、まるで心臓の裏側から響いてくるようだ。胸の奥がひりつき、何度も振り返りそうになるのを必死で堪える。
「大丈夫……ここから先よ……」
自分に言い聞かせるように小さく呟く。ミラの小さな足音が私のすぐ後ろに続き、白い手袋をした指先がスカートの裾をそっと握っているのが見える。彼女の吐息が細く、かすかに震えていた。
重たい扉の前で立ち止まり、ゆっくりと取っ手に手をかけた。冷たい金属の感触が掌に染み込み、胸の奥で鼓動が一段と早くなる。扉を押し開けると、冷たい空気が頬を撫で、部屋の中央に鎮座する巨大な鏡が姿を現した。
厚い銀枠に縁取られ、青白い光を帯びて立つその鏡は、まるでここだけが別世界へ通じているかのようだった。ミラは思わず足を止め、目を見開いて鏡を見つめる。白い手袋をした指先が胸元にそっと触れ、息をひとつ飲み込む音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。
「ここ……なんですか……」
ミラがかすれた声でそうつぶやいた。私はその声に、胸の奥で細い針が刺さるような感覚を覚えた。好奇心と恐怖が入り混じった視線が鏡へ注がれ、その瞳の奥で光がわずかに揺れている。
(ここからが始まり……)
胸の奥で呟き、静かに椅子へ向かう。ランプの光が私の肩越しにのび、鏡の表面を青白く照らす。背後でミラの吐息が震え、私はその音を確かめるように耳を澄ませた。
私は椅子に腰かけ、深く息を吐いた。胸の奥でためらいがざらりと音を立て、決意の鋭さがその間に潜んでいる。ミラの視線が私に注がれ、白い手袋をした指先が膝の上で小刻みに動いているのが見えた。ランプの光がその手元を照らし、影を長く床に伸ばしている。
「……私こそがアリエット。アリエットこそが私。私たちは一つの身体で二つの顔を持っているの」
言葉を吐いた瞬間、空気が震え、暖炉の火がしぼむ。部屋全体がわずかに暗くなり、ミラの頬がみるみる青ざめていく。彼女の目の奥で驚きと恐怖が交錯し、息がひゅっと吸い込まれた音が響いた。
「そんなこと……」
ミラは首を振り、後ずさるようにして私を見た。白い手袋の指先が胸元でぎゅっと握りしめられ、布の上からでもその緊張が伝わってくる。私は穏やかに微笑み、ゆっくりと身を乗り出した。
「信じられないなら、鏡を覗いてみて」
囁くように言ったその声は、私自身のものではなく、どこか遠くから響く別の女の声のように聞こえた。鏡の表面がわずかに波打ち、そこに薄く蠢く影が見える。ノクスの声が微かに笑い、その笑いが部屋の空気をかすかに震わせた。
ミラの視線が鏡へ吸い寄せられる。好奇心と恐怖の火花が瞳に灯り、その光がわずかに揺れている。私は胸の奥で息を止め、次の瞬間を待った。鏡の表面に微かな波紋が広がり、まるでその時を合図するかのように光がきらりと反射した。
ミラが一歩、また一歩と鏡に近づく。彼女の白い手袋の指先がかすかに震え、息をのむ音が小鳥の羽ばたきのように部屋に溶けた。私はその後ろ姿を見守りながら、胸の奥で自分の鼓動が荒くなるのを感じていた。
(今……この瞬間が……)
ミラが身を屈め、鏡を覗き込む。青白い光が彼女の頬に反射し、その瞳に老いたアリエットの顔と、背後に立つノクスの影が映りこんだ。ぞくり、と背筋を冷たい刃がなぞる。
「……あ……」ミラの唇から小さな声が漏れる。
その瞬間、鏡の表面が波打った。水面に投げ込まれた石のように静かに、だが確実に広がる波紋。ノクスの声が低く甘く、空気を刺す。
「ようこそ、愛しい娘」
鏡の中から伸びた冷たい手が、ミラの手首をつかんだ。瞬間、空気が凍りつき、私の胸に恐怖と快感が同時に走る。
(これで終わりなの……? 私の役目……)
私の指先が微かに震え、立ち上がろうとした足が床に貼りついたように動かない。ミラが短く悲鳴をあげる。「いやっ……!」その声が刃のように耳の奥を裂いた。
ノクスが鏡の奥で笑みを浮かべる。その笑いがランプの光をゆがめ、鏡の表面がさらに大きく揺れる。ミラの身体が引きずられるように鏡へ傾き、その輪郭がゆっくりと溶けていく。
「……やめ……」私の喉から声が漏れるが、空気に飲み込まれて消えた。足先が冷たく、背中に氷の針が突き立つ感覚。
ノクスの囁きが耳元で響いた。「これがあなたの選んだ道よ」
その言葉が落ちた瞬間、ミラの身体は完全に鏡の中へと引きずり込まれた。部屋には再び静寂が戻り、青白い光だけが残る。私はその光景を見つめながらも動けないまま、掌の中で自分の爪が肌に食い込む感覚だけを感じていた。




